信徒たちから批判を受けた使徒パウロの苦悩
1)コリント人への第一の手紙と第二の手紙との違い
使徒パウロの書簡によれば、パウロは三度にわたりコリントを訪れています。
その間、彼はコリント教会宛に合計で四通の手紙を送りました。
新約聖書には「コリント人への第一の手紙」と「コリント人への第二の手紙」の二通が収録されていますが、これらは実際には二通目と四通目の手紙にあたります。
最初の手紙は現存していませんが、二通目である「コリント人への第一の手紙」のなかで、パウロが以前に送った一通目の手紙について、ただひと言、言及している箇所があります。
<1コリント5:9> わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、
この「前の手紙」に対し、コリント教会からパウロへ返信がありましたが、それをパウロはエペソに滞在中に受け取りました。その手紙の内容も「コリント人への第一の手紙」で触れられています。
<1コリント7:1> さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。
パウロはこの手紙に対してさらに返信を送りましたが、その返信が新約聖書に「コリント人への第一の手紙」として収められました。これが実質上、コリント教会に送った二通目の手紙になります。
その後、パウロがコリントを離れていた際に、「大使徒」と呼ばれていた偽の使徒たちがコリント教会を訪れ、パウロについて様々な悪口を信徒たちに広めたことがありました。
この事態を知ったパウロは、「涙の手紙」と称される三通目の手紙を書き、弟子のテトスに託しました。テトスはこの手紙を携えてコリントへ向かい、教会に届けましたが、残念ながらこの手紙は現存していません。
この「涙の手紙」のおかげで、コリント教会では騒ぎが鎮まり、落ち着きを取り戻しました。
その後、パウロがエペソからマケドニアに移動したところで、弟子のテトスと再会しました。
テトスからコリント教会の最新の状況を聞いたパウロは、マケドニアからコリント教会宛てにさらに一つ手紙を送りました。
この手紙が新約聖書に「コリント人への第二の手紙」として収録されています。実際にはパウロがコリント教会に送った四通目の手紙です。
2)信徒たちから受けた様々な誤解
「コリント人への第一の手紙」では、教会内で発生したさまざまな問題に対して、パウロがキリストの福音を用いて解いていく様子が描かれています。
一方、「コリント人への第二の手紙」では、パウロ自身に問題の焦点が当たっていたため、彼に対する誤解を解く内容になっています。
パウロに対する不平不満と非難の声は大きく、彼はそれに深い悲しみを感じました。
それでも耐え忍び、続けてキリストの愛と福音をもって辛抱強く問題に向き合い、解決していく姿が、「コリント人への第二の手紙」で描かれています。
ではいったい、使徒パウロはどのような不満や非難の声を浴びたのでしょうか。
<一つ目の指摘は>
パウロ自身が「肉体的に弱く、彼の説教からは何も得るものがない。」
「手紙は素晴らしいのに、実際に会うと弱々しく、話もつまらない。」
という批判でした。
<10:10> 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。
これは、あまりにも衝撃的な内容です。
実際にパウロは何度も投獄され、鞭打たれ、生きているのが不思議なほど体力は極端に消耗していました。
そんな彼を慰めたり労ったりするどころか、「体が虚弱だ、弱々しい」と批判します。
さらに、「説教がつまらない、話が面白くない」という言葉は、牧師や指導者にとっては致命的な批判です。
ここまで言われたパウロの心情はどれほどだったでしょうか。
<二つ目の指摘は>
「コリント教会を訪問すると言いつつ、来ていない。約束を守らない人だから、信頼できない」というものです。
<三つ目の指摘は>
「献金を集めると言いつつ、それを横領しているのではないか。あるいは不正に使用しているのではないか」という献金に対する疑惑です。
<7:2> どうか、わたしたちに心を開いてほしい。わたしたちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからもだまし取ったことがない。
<12:16> わたしは、(中略)悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、人は言う。
どの指摘も、パウロにとっては心をえぐられるような衝撃であったことでしょう。
それだけでなく、最も大きな疑いは、「そもそもパウロが本当に使徒かどうか。使徒と自称しているだけではないのか」というものでした。
コリント教会はパウロが自ら開拓して建てた教会です。それだけに他のどの教会よりも強い愛着を持っていました。
最も信頼されたいと願っていた信徒たちから厳しい誹謗中傷を受けながらも、パウロはあきらめず、辛抱強く、キリストの愛と福音によって、誤解を一つずつ解いていきました。
では、パウロはどのようにしてこれらの問題を解いていったのでしょうか。
土の器の中にある宝
1)私の弱さを誇ろう
使徒パウロに対する非難の声に応えて、パウロは感情的にならずに、「わたし一人のことを見るのではなく、わたしと共にいる神様と主イエスを見て、感じて欲しい。」
「あなたがたの肉の目だけで見るのではなく、神霊な目を開いて見てみなさい」、と教え始めました。
「わたしはこのように考える。わたしの弱さはむしろわたしの長所なのだと。なぜなら、弱いからこそ、神様と主が一層共にいてくださるからだ。」
「コリント人への第二の手紙」の醍醐味は、使徒パウロが自分に対する非難をきっかけに、むしろその状況を機会に変え、コリント教会の信徒たちが神様の視点で物事を見るように目を開かせた点にあります。
<12:7-10> そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
パウロは自身の弱さを「とげ」だと表現しました。
2)土の器の中にある宝
<4:5> わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。
<4:7> しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
このように、使徒パウロは自らを土の器に喩えています。
自分が土の器であるからこそ、弱い土の器の中にある光、つまり主や神様の輝きがいっそう明るく輝くようになるのだ。
「だから、土の器だけを見ないで、その中にある宝を見なさい」と述べています。
パウロは自分を非難する人々に対して、感情的にならず、常に神様とキリスト・イエスの視点から問題の本質を見極めることで問題を解決しました。
大切なのは、人がどのように自分を見るかではなく、また自分自身が自分をどのように見るかでもなく、神様や主が目の前の問題をどのように見ているかを理解することだと強調しました。
このようにして、肉の目ではなく霊的な目で問題の本質を見極めるとき、問題解決への糸口を見つけることができる、という深い教訓の御言葉を伝えました。
以下の聖句は、当時の使徒パウロが心身ともに極度に疲弊し、満身創痍の状態であったことを伺わせます。
<11:26-31> 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。
パウロは、自分がなぜこれほど弱く見えるのかを詳細に説明しつつ、同時に、神様が自分の真実をご存じだ、それだけで十分であると述べ、むしろ自分の弱さを誇ろう、と言いました。
3)問題を機会として捉え、和睦の御働きに変えたパウロ
さらに、彼はこの機会を捉えて、許しと和解の御働きを起こしました。
<1:23> わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。
<2:3> このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。
<2:10> もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
<2:11> そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。
使徒パウロは、問題の本質がどこにあるのかを見逃しませんでした。
彼に悪口を言った偽の兄弟や「大使徒」と称される者たちの背後には、コリント教会を分裂と混乱へと導こうとするサタンの意図があったのです。
だから、見えない敵を主イエスの愛と福音によって必ず打ち倒さなければならなかったのです。
それには、キリストの愛にもとづき互いに許し合い、和睦することが欠かせません。
パウロはこの方法で誤解を解消し、和解へと導く働きを成し遂げました。
「自称」使徒だと疑われたパウロ
1)使徒の条件とは
主イエスの使徒として公認されるためには、次の二つの条件を満たす必要があるとされていました。
- 一つ目は、主イエスと共にさまざまな出来事を経験し、共に福音を宣べ伝えながら生活した人であること
- 二つ目は、主イエスが十字架につけられ亡くなった後、復活した主イエスを直接目撃した証人であること
<使徒行伝1:21-22> 主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、(中略)わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない。
ところで、使徒パウロは、イエスが生きていた時にイエスとその弟子たちを迫害していました。
そのため、この二つの条件を満たしていませんでした。
その結果、コリントの人々から本当に使徒かどうか怪しい、と疑われました。
そこでパウロは、独自の方法で、自身が間違いなく主イエスに選ばれた証人であることを一つひとつ証明していきました。
2)霊的な体験を通しての証明
<使徒行伝9:1-5> さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。
(中略)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
パウロが弟子たちを迫害するためにダマスコへ向かっている最中、主イエスと霊的に出会い、主の光によって三日間目が見えなくなりました。
しかし、主の弟子アナニヤの祈りによって助けられ、パウロは再び目が見えるようになりました。
主イエスがアナニヤに現われ、「パウロのもとへ行って、祈ってあげなさい」と促した際、次のように言われました。
<使徒行伝9:15-16> しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
この時、主イエスによってパウロは正式に使徒として任命されていました。
2000年前は現在のようにインターネットもなく、使徒たちや指導者たちがオンラインで集まる場もなかったため、アナニヤがパウロの証をしてあげる機会も限られていたでしょう。
大きな使命をもった人であるほど、紹介者や推薦人などの証人がいないと、大きな困難に直面することになります。
主イエスが生きていた時も、イエスを一番証してくれるはずのバプテスマのヨハネが、イエスの証人としての自分の使命をよくわかっていませんでした。
そして、イエスを最後まで正しく証できなかったため、イエスは苦難の道を歩むことになりました。
その結果、「自称メシヤ」だと罵られ、蔑まれました。
その主イエスの心情を、パウロほど深く体験した人はいなかったかもしれません。
そのためパウロは、手紙の冒頭で常にこのように記述しています。
<1:1> 神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロ
このようにまず自己紹介から始めていました。
さらに、12章1節以下を見ると、言葉では表現しきれないほどの霊的体験をパウロ自身がしたと語っています。
<12:1-4> わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。
(注:パウロ自身のことをこのように客観的に表現しています)
この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた。
(中略)パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
パウロは他の誰もが経験していない霊的体験を通じて、まずは自身が自らの使命を悟りました。
霊界を訪れ、人には語れないような天の秘密をたくさん聞きました。
イエスの肉体に会ったことがないパウロが、直接会った弟子たち以上に大きな証をすることができたのは、これらのことを霊界で見聞きし確認したからです。
3)パウロが伝える御言葉を通して証明
また、パウロは自らが語る「新しい御言葉」によって、自分が使徒であることを証明できると述べました。
<3:2> わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。
わたしが伝える「新しい時代」の「新しい御言葉」によりあなたがたが救われたことが、わたしが使徒である証だと言いました。
「あなたたちひとりひとりがわたしパウロが使徒であることの推薦状だ」と述べました。
旧約聖書のエレミヤ書には、メシヤが来ると「新しい契約」、すなわち新しい時代の御言葉が宣布されると預言されています。
<エレミヤ書31:31-33> 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
旧時代はモーセにより律法が石の板に記されましたが、新しい時代の御言葉は心に記されます。
つまり、より霊的な御言葉があなたがたの心に記される、とエレミヤが預言しましたが、これが成就しました。
そのため、パウロはエレミヤ書の聖句を引用してこのように述べています。
<3:6> 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字(旧時代の律法)に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字(律法)は人を殺し、霊(新しい御言葉)は人を生かす。
このような預言が背景にあるため、パウロは次のように述べています。
<3:3> そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
パウロが伝えた御言葉は、石の板ではなく、人の心に書かれた霊的な御言葉でした。
言い換えれば、パウロの御言葉を通して聖霊がコリント教会の信徒たちに臨み、彼らの心に新しい御言葉が刻まれ、それによって彼らの霊魂が新しく造られたのです。
これにより、パウロが真の使徒であることが証明されました。
<5:17> だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
4) キリスト・イエスのように生きた使徒パウロ
また、パウロは誰よりも主イエスが辿った十字架の道、苦難の道を自らが歩んでいると述べ、それこそがキリストの僕、使徒である証拠ではないかと伝えています。
<11:23> 彼らはキリストの僕なのか。(注:使徒たちだけがキリストの僕なのか、という意味。)わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。
<11:27> 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
<ピリピ人への手紙1:29> あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
パウロは、キリストをただ信じるだけでは真の弟子とは言えないのではないか。主イエスのように十字架を背負うほどの苦しみを受け入れることが、キリストの弟子や使徒である条件だ、と言っています。
<6:7~8> 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。
これはまさに、主イエスがアナニヤに伝えた「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(使徒9:16)という御言葉が実現していることを示しています。
パウロは、イエスが生きていれば歩むはずの道を、今、使徒パウロを通じて主イエスが共に歩んでいると述べています。
<4:10> いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
<4:11> わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
このように逆説的な表現を用いて、自分が死ぬこと(犠牲になること)によってキリストが自分の体を通して生きることができる。だからパウロは自分を本物の使徒だと証ししました。
<12:12> わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。
キリストが生きたようにわたしパウロも生きている。あなたがたも疑うだけでなく、わたしのように生きてみなさい。そうすることで、わたしが誰であるかを確認するまでもなく理解できるようになる、とパウロは伝えたかったのです。
宝があるところに心がある
パウロはまた、コリント教会の信徒たちに対して献金についても教育しました。
<8:7> さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。
「この恵のわざ」というのは、献金のことを指しています。
すべてをキリストのように豊かな心と真心をもって行うように、献金もそのようにしなさい。献金はキリストの心を具体的に実践する「恵みのわざ」だから、自ら進んで喜んで行うように、と説いています。
<9:7> 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
<9:8> 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
また、わたしたちが行うこの義の行い(献金)は永遠の天国に積まれるだろう、と述べています。
<9:9> 「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。
イエスもマタイによる福音書で「むしろ天に宝をたくわえなさい」、と言いました。
<マタイ6:20-21> むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み
出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。
このように献金に関する教育の御言葉を伝えましたが、それと同時に、使徒パウロは自身の心情も吐露しました。
<12:14> さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。
<12:15> そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。
<12:16> わたしは、あなたがたに重荷を負わせなかったとしても、悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、人は言う。
パウロがコリントを訪れる際には、教会に経済的な負担をかけないよう配慮し、自らの持ち物も惜しみなく捧げる心構えでいました。
しかし、そんなパウロに対して、信徒たちから金銭をだまし取っているとの疑いがかけられたのです。
キリストの愛と御言葉を通じてあらゆる誤解を解こうと努めたパウロですが、彼の哀切な胸の内を知ると、とても切ない気持ちになります。
使徒パウロの最終弁論
1)パウロの真実な心
10章7節以下を見ると、パウロは自分に向けられたあらゆる誤解に対して、このように弁明しています。
<10:7> あなたがたは、うわべの事だけを見ている。もしある人が、キリストに属する者だと自任しているなら、その人はもう一度よく反省すべきである。その人がキリストに属する者であるように、わたしたちもそうである。
キリストの視点からわたしを見てほしい。うわべだけで判断しないでほしいと述べています。
また、行くと言って行かなかったり、すると言ってしなかったり、約束したことが変わることもある。しかし、その都度、状況を見ながら神様とすべて相談して、神様が最善と判断されることに従っている、と説明しています。
<1:17> この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。
<1:12> わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。
<2:17> わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
<4:2> 神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
このようにしてパウロは、「わたしはこれまでキリストの福音を真実かつ純粋に、一切曲げることなく伝えてきた。このことを通じて、わたしパウロがどれほどあなたがたに対して真実な心を持ち、愛情をもって接しているかを理解してほしい」と強く願いました。
2)おわりに
人生を生きる上で、さまざまな人間関係が存在します。その中でも、特に大切にしている人や信頼している人から裏切られたり、誤解を受けたりするとき、誰であれ非常に苦しく、耐えがたい気持ちになるものです。
多くの人が深く傷つき、なかには心の病に苦しむ人もいるでしょう。
しかし、使徒パウロは自分に向けられたさまざまな誤解を人間的な視点で処理することなく、「神様はこの問題をどう見ていらっしゃるだろうか」と思い巡らし、神様とキリストの心を持って対応しようと努めました。
「わたしは皆が指摘するとおり、たしかに弱く、力不足で、話もつまらない。しかし、だからこそ神様により一層切実に願い求めている。この至らない自分を通して、神様がより現れてくださるのだから、このことを証しよう」と決心しました。
パウロは自分自身の考えや処世術に頼ることなく、常に神様とキリストに祈り、願い求めて確認したことを伝えていました。
この姿勢は、パウロが生きた時代だけでなく、現代を生きるわたしたちも、それぞれの状況や環境に適した形で実践し、活かしていきたいものです。
そのように心がけて生活する中で、神様とキリストの愛を深く悟り、キリストの愛と福音をもって、神様に、主に、そして人々に接することができるようにお祈りします。