時代を超え、すべての人に適用できるパウロの名著
1)パウロが自ら育てたエペソ教会
エフェソス(以下、「エペソ」)は現在のトルコに位置し、当時は小アジアのローマ帝国属州の州都でした。この港湾都市はエーゲ海と川の河口の近くにあり、他の主要都市との交易で繁栄していました。
エペソは特にアルテミス神殿で有名で、多くの参拝者がこの都市を訪れていましたが、アルテミス女神の像や神殿の模型を製作し販売する職人たちの商売も盛んでした。
エペソはキリスト教の普及において重要な役割を果たしました。
パウロは第2回目の宣教旅行で初めてエペソを訪れ、その後、第三回目の宣教旅行で再びエペソに来て、その時に長期間滞在しました。
この2回の訪問で、パウロは合計で約3年間エペソに滞在しましたが、この滞在の詳細は、使徒行伝の18章から20章に記述されています。
他の都市での宣教では、パウロは教会を開拓した後すぐに次の都市へ旅立ち、その教会を弟子たちに任せることが多かったようです。
しかし、エペソでは事情が異なり、パウロ自身が直接教会を導き育て、エペソ教会を小アジア全域に福音を広めるための中心拠点として確立しました。
エペソでのパウロの活躍については、このように書かれています。
- パウロは「公衆の前でも、また家々でも」御言葉を教え(使徒20:20)、
- 「三年間、夜も昼も涙をもって、ひとりびとりを絶えずさとしてきた」(使徒20:31)
- 「主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていき」(使徒19:20)
- 「アジアに住んでいたユダヤ人もギリシャ人も皆、主の言葉を聞いた」(使徒19:10)
パウロと弟子たちの献身的な活動により、大勢の人が福音を受け入れましたが、反対する人も多く存在し、その結果、エペソの町中が大混乱に陥る大きな騒動が発生しました。
エペソには5万人を収容できる世界最大の劇場がありましたが、ある時、群衆がその劇場に押し寄せ、「大いなるかな、エペソ人のアルテミス!」と2時間にわたって叫び続けました。
アルテミス大女神こそが本物の神であると訴えたのです。(使徒19:28-35)
しかし、エペソにいた多くの人々は、このような反対にもかかわらず、偶像崇拝をやめてキリスト教に改宗しました。
魔術を行っていた人々のなかで改宗した多くの者たちは、その改心を示すために、自分たちの魔術の本を公衆の前に持ち出して焼き捨て、偶像崇拝の過去との決別を公に表しました。
焼き捨てられた本の価値は、銀5万という大金に相当したと記されています。(使徒19:18-19)
また、エペソでは、パウロを通じて多くのしるしや御働きがありました。
例えば、使徒行伝には
「神がパウロを通して驚くべき奇跡を行い、彼の身に触れたハンカチや前掛けを病人に持って行くと、病気が癒され、悪霊が出て行った」(使徒19:11-12)
と記録されています。
このようなパウロと彼の弟子たちの精力的な活動の結果、エペソ教会は初期キリスト教時代においてアジアで最も重要な教会の一つになりました。
2)獄中からの愛の手紙
聖書の黙示録には、イエス・キリストから「アジアにある七つの教会」に向けて黙示が託される場面がありますが、その中でエペソ教会の名前が最初に挙げられています。
イエスが黙示で伝えた内容によると、エペソの信者たちの労苦と忍耐は称賛されていますが、同時に「初めの愛から離れてしまった」と責められています。
さらに、彼らが悔い改めて初めの愛を取り戻さなければ、その燭台(使命)を他の教会に移すと警告されています。
この言葉からわかるように、エペソ教会が他の教会に比べて際立っていたのは、主への熱い愛であったと考えられます。
パウロが書いた「エペソ人への手紙」でも、「愛」について深い御言葉が記されています。
この手紙は、西暦62年ごろ、パウロがエペソを離れてから4年経った後、ローマの獄中で書かれました。
パウロが他の教会へ書いた手紙が、それぞれの教会で発生している具体的な問題を解決する内容であるのに対し、エペソ人への手紙はそれらとは一線を画しています。
この手紙では、信仰の根幹をなす深い御言葉が粛々と書き綴られています。信仰の教科書のような内容です。
その結果、当時のエペソの人々だけでなく、時代や地域を超えて、現代の私たちにも新鮮に感じられ、生きる力と希望を与えてくれる内容となっています。
神様の御旨と人間創造の目的
1)キリストの存在の大きさ
神様が人間を創造したのは、愛の御心を実現するためですが、どのようにしてその御心が成し遂げられるのでしょうか。
エペソ人への手紙では、メシヤを中心にして、天にあるものも地にあるものもすべてを一つに統合することで、愛の御心を成すと書かれています。
<エペソ1:10> 神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
全能者である神様は、わたしたち人間、天に存在するすべて、そして地上の万物を、キリストを中心にして一体になるように歴史を進めている、とパウロは述べています。
また、次のようにも書いています。
<エペソ1:20~21> 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
パウロはこの数行の短い文章の中で、キリストがどれほど大きな権威、権力、そして力を持つ存在であるかを明確に表現しています。
しかし、キリストがいるにも関わらず、私たちは自分の目の前にある現実の問題がそれ以上に大きく感じられることがあります。
メシヤを信じて救われた後でも、自分の問題が解消されないと感じることがあります。
自身の至らなさや矛盾など、様々な問題を抱えながら生活しているため、時には自分という存在がとてもみじめでちっぽけに感じられることがあります。
しかし、パウロは私たちが弱い存在であっても、メシヤを信じてついていくことがどれほど大きなことなのかを強調しています。
そして、神様の御旨を成し遂げるために、神様とキリストが<私たち一人一人>に働きかけ、共にしていることを実感し、目を開いて見てほしいと切実に訴えています。
<エペソ1:18~19> あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
その当時、信者たちは迫害され、惨めな状態で生きるしかなかったため、しばしば天の国やメシヤの素晴らしさを見失いがちでした。
パウロは、この信者たちに対し、私たちが継ぐべき天の国がいかに栄光に満ちているかについて目を開いてほしい、と訴えています。
さらに、神様の力強い活動が日々私たち信者に与える力がいかに大きいか、私たちがその絶大な力を知るに至るように祈っている、と述べました。
2)メシヤの次元に至るまで導かれる神様
それでは、全能な神様はわたしたち人間がどのように変化することを計画し、導いているのでしょうか。
この疑問に対してパウロは「一人一人がメシヤの次元にまで至れるように導かれている」と一言で明確に答えています。
<エペソ4:13~15> わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。(中略) 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
これはつまり、私たち人間がキリストの次元、キリストの人格、キリストの徳の高さに到達することが神様の計画であるという意味です。
そして、この計画は現在も進行中です。
そして、私たちはこの御心を成すためにあらかじめ選ばれた存在であると、パウロは述べました。
<エペソ1:11> わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
これは、<自分が誰であるか>を明確に悟らせるための言葉です。
神様の壮大な計画、すなわちキリストを中心に御心を成し遂げる計画を知ることも大事ですが、その中で私たちの位置づけや役目を忘れてはいけません。
神様の計画では、私たちがキリストの次元にまで達することが目標であり、私たちはあらかじめ定められており、神の民として、またキリストの体として選ばれた存在である。
そして、この神様の計画がまさに現在、私たちの生活の中で進行している。
このことを悟らせるためにこの聖句が書かれました。
パウロは、神様が私たち人間に対して長く忍耐しながら、一人一人をその個性に応じてメシヤと一体になれるよう個別に導いてくださっていると述べています。
私たちがいかに弱くて未熟でも、わたしたち一人一人は<メシヤの肢体>であり、そのため非常に貴重で尊い存在であると、強く励ましています。
このことを意識出来なければ、私たちの日常は淡々と流れていってしまいます。
うまくいくことも、うまくいかないことも、落ち込むことも、つまずくこともあるかもしれませんが、実はこれらすべての経験を通して、私たちが段階を経てキリストを悟れるように、神様は導いているのです。
そして、最終的にはメシヤの次元にまで至れるように、今も積極的に働きかけてくださっているのです。
私たち人間は、神様とキリストによって絶えず造られ続けている、尊い神様の作品であると使徒パウロは表現しました。
<エペソ2:10> わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
神様の御旨を成すために
1)すべての核心は「愛」
パウロは、キリストによって造られ、最終的にキリストの次元に至るために最も大切なことは「愛」であると述べました。
福音を聞いて実践することも、熱心に祈ることも、それらすべての根本的な目的は愛を成すためです。
福音も、真理も、祈りも、信仰も大切ですが、これらはすべて最終的に愛を残すためのプロセスに過ぎません。
ですから、すべての良い行いは「愛」をもって行うべきです。そうでないと、その行いには意味がなく、成長も遂げられません。
キリストの次元に至るための成長には、すべての根源が愛である必要があります。
御言葉を伝えるときも、人と会話をするときも、食事をするときも、すべては愛を持って行うことが重要です。
それでは、具体的にはどのような愛を実践すべきでしょうか。
パウロは、「神様が私たちを愛してくださったその愛だ」と述べています。
これは、神様がメシヤを通じて私たちに示された愛です。この愛の核心は、「犠牲の愛」に他なりません。
<エペソ5:1~2> こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
愛の本質について、パウロは次のように述べています。
私たちのために犠牲となり、ご自身を捧げたキリストの愛、十字架での死をも厭わなかったメシヤの愛が本質的な愛です。
この愛こそが、私たちをキリストと一体にし、キリストの次元へと導く愛だとパウロは言いました。
<エペソ1:5-7> わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(中略) わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
パウロは、私たちがメシヤの血のあがない、つまり、私たちの代わりに死んでくださったキリストの血によって罪の許しを受けたと述べています。
このように、神様とキリストが私たちに示した愛の本質は、愛する者のために耐え忍び、犠牲になる愛です。
自分の霊のために自分の肉体を犠牲にし、自分の欲望を犠牲にし、神様の御心のために自分の考えを犠牲にする。
そういう犠牲のもとで神様の御心を成し遂げることができます。
これがキリストの愛の本質です。
私たちが「愛」について語る時、キリストが私たちのために血を流し、犠牲になったその愛の核心を決して忘れてはなりません。
この核心を忘れると、「愛の方向性」を見失い、どのように愛すべきかの分別力も失ってしまいます。
「愛する」と言っても、自己の欲望を満たすための情欲的な淫行を行うと、サタンがその背後で働くようになり、その結果、天の国を受け継ぐことはできなくなります。
私たちがどのような愛を実践するかによって、私たち自身の永遠の運命が左右されるということです。
<エペソ5:5~10> あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。(中略)あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい (中略)主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
イエス・キリストが私たちのために耐え忍び、忍耐し、自己犠牲を行ったことを、神様は最高に喜ばれました。
そして神様はそれを一番大きな条件と見られて、犠牲なさったことの千倍、万倍、億万倍もの大きな権勢と権威、知恵と能力をイエス様に与えました。
私たちも、命や永遠なるもの、そして御心のために自分を犠牲にして忍耐することで、メシヤに至るような成長を遂げることができます。
犠牲を払うことは決して損ではありません。
耐え忍び、犠牲にする愛は、情欲を満たす愛よりも、過程でも結果でも多くの喜びをもたらし、私たちを何万倍も豊かにします。
そして最終的にはメシヤの次元に至る祝福を受けることができます。
それを分かって喜びで行うことが重要になります。
<エペソ4:22-24> すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
2)聖霊と共に
ところで、私たち人間は肉体を持っている以上、どうしても欲望や情欲を満たす愛に走りやすい傾向があることは否めません。
そのため、自分の力だけでは、キリストが示してくださった犠牲の愛を実践することは非常に難しいです。
自力では限界にぶつかり、挫折してしまうことが多いため、聖霊を呼び求め、聖霊による愛の御力を受けて愛を実現するよう努めなさい。聖霊と共に行ないなさい、と勧めています。
<エペソ4:3> 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
<エペソ2:18> …一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
聖霊を呼び求め、祈り、対話し、聖霊の力によってキリストの愛を日常生活の中で実現できるように願い求めることが重要です。
このような愛が回復することで、神様との関係も回復します。
そして、神様との愛が回復すると、現実の様々な人間関係の問題も解決するようになります。
<エペソ2:16> 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
キリストの十字架によって、互いに分裂し、別れ争っていたものが、ひとつとなり、神と和解できるとパウロは言いました。
キリストの真実な愛によって神様との和解がもたらされ、神様との関係が回復したのと同様に、人間関係においてもキリストの愛を通じて互いに一つになるようにと言っています。
これにより、キリストを中心に天にあるものと地にあるものを統合する計画がなされます。
さらに、人間関係を回復するための核心は「相手を貴重に思って接すること」にあるとパウロは述べています。
神様が私たちを神の体として、取るに足らない存在であっても貴重に愛してくださったように、あなたたちも相手を貴重に思い、主に接するように接しなさい、と言いました。
パウロは夫婦関係を例に挙げて、このような接し方が人間関係を回復させ、人生の問題を解決する道であると教えています。
<5:22> 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
<5:25> 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
<5:28> それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
<5:30> わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
私たちはキリストの体として選ばれています。
そのため、パウロは、主に仕えるように、主に接するように、神様に接するように、相手を貴重に思い、そのように接することを私たちに勧めています。
霊的な戦いに勝利しよう
1)悪魔、サタンとの戦い
神様との和解や人間関係の修復の核心は、まさに「愛」です。
また、すべての神様の計画を実行するための原動力もほかならぬ愛です。
この愛により、人間は神様と一体となり、キリストの犠牲の愛を実践しながらキリストの次元へと成長することができるのです。
だからこそ悪魔、サタンはこの「愛」を何としても破壊しようと努めます。
まず、私たちの神様への愛を他の方向に向けさせ、神様に対する誤解や疑念を抱かせます。
その後、キリストへの疑念を植えつけ、神様の御言葉の意味を歪曲させることで、私たちの理解を曲げようとします。
こうして、私たちの神様やキリストに対する信頼を徐々に崩し、最終的には堕落するように誘惑します。
サタンは疑いの隙間を狙い、私たちの心の状態を正確に把握します。
そして、その人の心に侵入し、サタンの思考をまるで<自分の考え>であるかのように見せかけて惑わし、混乱させます。
いちど神様と主の福音への信頼が崩れると、私たちの心も崩れ、信仰を失い、結果的にはすべてを奪われてしまいます。
サタンは様々な関係性を壊していきます。
- 神様との関係
- キリストとの関係
- 夫婦間の関係
- 友人との関係
- 教会内外の人間関係
- 職場での人間関係
上記以外のものでも、あらゆる関係を壊そうとします。
争いや不和がある所には、必ずサタンが関与していると言っても過言ではないでしょう。
だから、目の前の人を憎むのではなく、その人を憎むようにさせるサタンの働きがあることを認識することが重要です。
<エペソ6:12> わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
このサタンの策略を知り、それに対抗するためには、神の武具を身につけなければなりません。
<エペソ6:11> 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
<エペソ6:13-17> それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
このように、パウロは、悪魔との戦いにおいて打ち勝つために、<主の真理の御言葉>という最高の武器で完全武装しなさい、と言いました。
武装が完璧にできると、見えないサタンのさまざまな誘惑を理解し、感じ取ることができるようになります。
サタンが放つ波長を感じ取れるようになり、また自分の考えからもサタンの存在を察知できるようになります。
御言葉を聞くことで、サタンの策略や誘惑が明らかになるのです。
そのために、私たちは日々真理の御言葉を学び、惑わされないよう努める必要があります。
<エペソ5:15-17> そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
2)絶えず祈りなさい
エペソ人の手紙の最後で、この霊的な戦いに勝利するために、パウロは祈りの重要性を強調しました。
<エペソ6:18> 絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさい。
パウロは「何を祈るべきか」ということについて、三つのポイントを挙げています。
- 自分の内なる人(霊)が健やかで丈夫に成長できるように祈ること。
- 自身の心が清らかな聖殿のようになり、主キリストが毎日その心の聖殿に住むように祈ること。
- キリストの愛がどれほど大きく、深く、高いかを悟れるように祈ること、です。
<エペソ3:16-19> どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
キリストを深く知るほど、私たちの霊魂は成長します。
キリストの愛を知り、その愛に満たされれば、簡単に挫折したり、倒れたりすることはありません。
だから、他のなによりも、キリストの愛を心の底から悟れるように祈ることが重要です。
神様とキリストの愛を深く悟ることができれば、それがメシヤの次元に至るための原動力となります。
また、神様とキリストの愛を悟る分、より多くの実践が可能になり、成長を遂げることができます。
聖書に書かれていることを実践するのが難しいと感じるかもしれません。
しかし私たちが願い求める以上に大きな力をもって神様が共にしてくださるので、問題はないとパウロは述べています。
<エペソ3:20-21> どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
神様の愛がキリストを通して現れたため、私たちの想像を遥かに超える御力で、私たちが求めるすべてを叶えて下さいます。
この御力は、キリストの愛そのものであり、神様の愛に他なりません。
最後に、パウロは<エペソ6:20>で次のように締めくくりました。
私は福音のために使徒として選ばれ、現在は獄中におり、鎖につながれている。しかし、鎖につながれていても、語るべき時には大胆に語ることができるように、私のために祈ってほしい
そのため、お祈りすべき内容は、
- 自分の霊魂が丈夫になり、
- 自分の心の中にキリストが毎日住まわれ、
- 神様の愛の高さ・深さ・広さを悟れるように祈ること。
さらに、 - 福音を伝える使命者のためにも祈ること。
これら4つのことについて、パウロは祈ってほしいと願っています。
おわりに
天にあるもの、地にあるものをことごとく治めている神様は、そのすべてをキリストを中心に統括しています。
キリストにはすべての権威と権力が与えられているから、キリストの中にすべてがあるということです。
今、何か問題を抱えていますか?
何かが足りないと感じていますか?
病気で苦しんでいますか?
経済的に困っていますか?
キリストの中にすべてがあるから、キリストに出会えば、何も心配する必要はありません。
困難があったとしても、それを通じて自分自身をもっと節制し、緊張感を持ち、さらに成長するための手段として神様が使ってくださいます。
そして、日常生活や信仰生活がもっと上手く行くように、神様が積極的に働きかけてくださいます。
世の中のすべての出来事も、個人的なことも、そして天にあるもの地にあるものは、すべてキリストの中で成されています。
このことを説明するために、
エペソ人への手紙で使徒パウロは「主にあって」、「主の中で」という表現を、35回使用しています。
「主の中で」という表現は、英語では「in Christ」です。
これは、すべてのことが主の中で行われているという意味です。
神様が人間に対して計画されたことは、キリストの愛を知って、私たちもその愛を実践しながら、やがてはその愛がキリストの次元にまで至ることです。
その愛は、情欲的な愛ではなく、耐え忍び、忍耐し、犠牲を伴う愛です。
獄中にあるパウロが渾身の力を込めて書き送ったこの深い愛のメッセージは、時代を超えて現代に生きる私たちにも届き、その言葉がみずみずしく鮮烈に響きわたり、生きる力を蘇らせてくれます。
私たちも、日々の生活の中で、相手を生かし、助けるために自分を犠牲にする生き方をしてみると、新たな発見があるかもしれません。
これまで見つけることができなかった、まったく新しい世界に出会えるのかも知れません。
キリストの中に天にあるものと地にあるもの全てが含まれているわけですから、私は次のように告白します。
「わたしには、キリストお一方で充分です。」
これが「エペソ人への手紙」でパウロが一番伝えたかった言葉です。