ピリピ人への手紙

パウロ書簡

獄中でしたためた「喜び」の手紙

1)ピリピ人への手紙とは

パウロが書いた書簡の中には、「獄中書簡」と呼ばれる四つの書簡があります。「エペソ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」です。

「ピリピ人への手紙」は、使徒パウロがピリピ教会から、その教会員であるエパフロデトを通じて受け取った献金に対する感謝の手紙として書き送ったものでした。

この手紙が書かれたのは、キリストの昇天から約30年後、またパウロが初めてピリピで宣教してから約10年後にあたる西暦61年末から62年初頭の時期で、パウロがローマで獄中生活を送っていたときです。

現在のギリシャ近辺、マケドニア地方に位置するピリピは、古代マケドニアの軍事拠点でした。付近に金鉱山があったことから経済的に栄え、さらに他の海岸沿いの都市を結ぶ街道が通っていたため、交易も盛んでした。ローマの植民都市となってからは、ローマによる直接統治を受け、ローマを模した建築や都市設計が採用されたため、「小ローマ」とも呼ばれていました。

ピリピはヨーロッパ大陸に福音が初めて伝えられた場所として非常に重要な意味を持っています。

ピリピに福音が伝わるようになった詳しい経緯は、使徒行伝16章に記されていますが、後半で詳しくご紹介します。

2)キーワードは「喜び」

「ピリピ人への手紙」で、使徒パウロが最も伝えたかったことは何でしょうか。

パウロはこの手紙を通して、どんな環境や状況でも喜びと感謝を持って生きることを勧めています。どんな困難の中でも喜びを見出し、その姿勢で生きることを強調しています。

「ピリピ人への手紙」には、喜び喜びなさいという言葉が、この四章の短い手紙の中で頻繁に登場します。「喜び」という語句は、動詞と名詞を合わせて約16回使用されており、この手紙の主要なテーマとなっています。

  • わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。(ピリピ人への手紙1:18)
  • わたしは喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。(ピリピ人への手紙2:17-18)
  • 最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。(ピリピ人への手紙3:1)
  • わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、(ピリピ人への手紙4:10)

しかし、「喜びなさい」と語っているパウロ自身の状況は、決して喜べるものではありませんでした。むしろ、無念や悲しみに沈んでもおかしくない状況の中で、この手紙をしたためたのです。

普通なら落胆し、失望し、場合によっては命を絶ちたくなるような獄中で、パウロはいかにして心から喜びを感じ、置かれている現実とは真逆のメンタルを保つことができたのでしょうか。

使徒パウロは、どんな環境や状況、問題に直面しても、目に見える問題や心配事に惑わされず、その出来事の最終的な「結果」や「結末」を見通していました。

一方で、私たちが心配や悩み、不満、誤解を抱え、それが原因で失敗し、虚しく終わってしまうのは、物事を表面的にしか見ず根本を理解していないからです。

目に見えることや耳に聞こえる現実に惑わされると、怒りや誤解、不満で終わってしまいます。

パウロはこう考えました。「今の状況は一見最悪に見えるかもしれないが、すべての過程を通して、神様とキリストの御心は、より良い結果へ導いてくださることだ」と。

「この問題を通して、一生私を祈りに駆り立て、たとえ10年、20年、少し辛くても、神様は永遠に価値ある最高のものを与えてくださるのだ」と信じていました。

このように考えることで、パウロは「私はそれを喜んでいる」と心の底から告白することができました。

これが、パウロの喜びの秘訣だったのです。

<ピリピ2:17> そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。

パウロのように、どんな困難に直面しても、慌てず騒がず、その背後にある神様の御心を見つめることが大切です。

現実の問題に振り回されるのではなく、神様がその状況を通して何を成そうとしておられるのかを見極められれば、パウロのように心から喜び、神様の御業に感謝しながら生きることができるでしょう。

パウロの投獄で火がついた宣教

1)わたしがやらなければ

目の前の状況が最悪でも、最終的には良くなるとパウロが確信していたことを端的に示す箇所があります。

パウロが投獄されたことで、多くの信徒たちは落胆するどころか、むしろ勇敢に、そして熱心にキリストを伝えるようになりました。

<ピリピ1:14> そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。

パウロはこう言いました。「私は獄に入っている。しかし、私が獄に入ったことで、多くの人々が『私がやらなければならない』『パウロが獄にいるなら、私がやるべきだ』と奮い立ち、キリストを伝えるようになったのではないか」と喜びました。

一方、ピリピ教会には、ねたみや闘争心、党派心からキリストを伝える者もいて、教会における状況はさらに混乱していました。

<ピリピ1:15~17> 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。

しかし、パウロは現実の問題よりも<結果に目を向けました

たとえ人々の思惑や動機が様々で、中にはパウロを苦しめるためにキリストを伝える者がいても、最終的にキリストが伝えられているのだから大丈夫だと考え、むしろそれを喜びとしたのです。

<ピリピ1:18> すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。

<現実>には獄中にいるという悲しみがありましたが、<本質>は、これによって皆がさらに奮い立ち、キリストを伝えるようになったことです。

本質を見たからこそ、パウロは喜ぶことができたのです。

<ピリピ1:19> なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。 

最終的には救いにつながると確信し、パウロはいつも結果を見て喜んでいました。

<ピリピ1:20-21> そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

「今、生きているのはキリストを伝え、神様の御心を行うため。どこにいても、どんな環境でも、それを喜んで行おうと思う。

しかし、もし死ぬことになっても、それは私にとって有益である。なぜなら、神様とキリストがいらっしゃる天国に行けるからだ。

だから、生きていても、死んでも、どちらも喜びなのである」とパウロは告白しました。

<ピリピ2:13~14> あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。

結局、自分たちが自ら行っているように見えても、すべてを行っているのは神様なのだから、喜びながら行えばよい、とパウロは言いました。

<ピリピ3:20~21> しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

パウロは、どんな困難があっても、「私たちの国籍は天にある」から、<最終的な結末は天国に行くこと>だと言いました。

そして、キリストは、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださる。これが神様が私たちに定めた<結末>だ。だから、「喜びなさい」と言ったのです。

一方で、キリストの十字架に敵対する者も多く、逆にその最後は滅びだと言いました。

<ピリピ3:18~19> わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。(中略)彼らの最後は滅びである。

使徒パウロは、目の前の現実にとらわれず、常に「最後」がどうなるかを見据えていたため、進むべき道がわかり、喜びながら歩み続けることができたのです。

2)主にあって、主の中で

どうすれば使徒パウロのように、本質を見極め、出来事や問題の結末を知ることができるのでしょうか。

その答えのキーワードは主にあって」「主の中でです。

「ピリピ人への手紙」には「喜びなさい」「喜び」とともに、「主にあって」「主の中で」という言葉が多く書かれています。

  • 主にあって堅く立ちなさい。<4:1>
  • どうか、主にあって一つ思いになってほしい。<4:2>
  • あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。<4:4>

喜びは、主にあって、主と一つになり、主に繋がっているときに感じるものです。

なぜなら主の中で生きる時に、出来事の結末や本質、そしてその中に含まれる神様の御心がわかるからです。

主の中にいれば、主が御言葉を通して教えてくださいます。また、聖霊も感動と御働きを通して教えてくださいます。

そして、主ご自身が暗闇、死、サタンに打ち勝った方であるため、主の中にいること自体が勝利です。

主はすでに無数のサタンに打ち勝ち、復活されました。だから、主に繋がっていることが勝利そのものなのです。

主の中にいれば、神様がどんな問題にも打ち勝つ力と、問題をはるかに超える知恵を与えてくださり、最終的に勝利へと導いてくださいます。

それが私たちの喜びの根本です。

<ピリピ4:11~13> わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる

パウロがどんな状況でも満ち足りることを学んだのは、単に経験を積んだからではありません。

どれほど劣悪な状況や、解決が不可能に思える問題に直面しても、主の中にいる限り、すべてに打ちことができる。「私を強くしてくださる方によって、何事でもできる」と悟ったのです。

主ご自身が「問題解決」そのものであるということです。

<ピリピ4:6~7> 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

だから、どんな困難に直面しても、慌てず、騒がず問題の本質を悟るために神様に祈り、心を平安にして、喜びと感謝を持ちながら、ただ神様の望むとおりに行いなさいと、述べました。

キリストの福音にふさわしい生活

1)主の中で生活するために

主に出会い、主の中ですべてを行うとき、根本的な喜びが得られます。

しかし、問題は、それを理解していても、実生活では忘れ、自分の考えで行動してしまうことです。

御言葉を聞いて「主にあって喜ぼう」と思っても、いつの間にか、一人で考え込み、怒り、誤解し、不平を言い、悲しんだり落ち込んだりしている自分がいます。

いつも主の中で主と共に生活するためには、他の関心事に心や時間を奪われないようにする必要があります。

他のことがもっと価値あるように思えて、その方向に流れてしまうのは、主の真の価値を知らないからです。主の価値を知る人だけが、主と共に歩めます。

だから、キリストの価値に目覚めるよう、パウロは次のように語りました。

<ピリピ2:10~11> それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

神はキリストをすべての支配、権威、権力、権勢の上に置き、あらゆるものの上におかれました

そして最終的には全世界がその主権を認める瞬間が来ると言っています。

しかし、使徒パウロも、主に出会う前は、まったく別のものに価値を置いていました。

<ピリピ3:5~8> わたしは八日目に割礼を受けた者イスラエルの民族に属する者ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。

キリストに出会う前のパウロは、自分の血統や生い立ち、学歴、実績を誇りにしていました。

しかし、キリストを知ってからは、それらはゴミ同然で、むしろ害になると告白しました。

本当に価値あるものを見つけたなら、それに集中します。すると、それ以外のものは邪魔になり、害となることがわかります。

だからこそ、自らそれを断ち切るようになるのです。

価値あるものに集中すると、最高の喜びを得られるようになります。

それでは、使徒パウロが、なぜこれほどイエス様の価値を悟り、命を懸けてイエス・キリストを伝え続けたのか。その根本はどこにあったのでしょうか。

<コリント人への第二の手紙12:2~4>
わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた(中略)パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

コリント人への第二の手紙で、パウロは霊界に行き、キリストの権勢の大きさ、その驚くべき実体を見たと告白しています。

第三の天に上げられた際、「言葉にできない」経験をしたと言いました。それが秘密であるため書けなかったのです。

この体験を通して、パウロはキリストに人生を捧げるようになりました。

私たちもキリストの実体を知り、悟ることを求めれば、人生が変わるでしょう。悟れないのは能力の問題ではなく、本質を遮るものが多いからです。

パウロのように、肉的な考えや自分中心の思いを「糞土」として切り捨てると、衝撃的に本質が見えてくるのです。

その時、まるでパウロが霊界で主を見たように、最高の喜びを感じるでしょう。

2)わたしにならう者になってほしい

主の価値を理解し、主の中にいること、それだけで人生の問題は解決し、救いは得られるのでしょうか。

救いに至るためには必ず行動が伴わなければなりません。実践が必要です。

パウロは、キリストの福音にふさわしい生活を送りなさいと教え、自らがその手本となりました。

  • ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。<1:27>
  • 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。<3:17>
  • あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。<4:9>

パウロは「私を見てそのとおりに生きてみなさい」と勧めました。

では、パウロがどのように生きていたかを見てみましょう。

<ピリピ3:12~14> わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

パウロは、まるでマラソン選手短距離走の選手のように、目標であるメシヤに向かって全速力で走り続けました。少しでも前へ進もうと、全力を振り絞っていたのです。

パウロの目標はただ一つ、「キリストのように生きること」でした。

彼は自分のやり方で走るのではなく、メシヤのように、メシヤが生きたように、小さなメシヤ>となり、それぞれの立場や使命において生きることを目指しました。

「私がメシヤに向かって走っているように、ひとまず私を参考にしてください。私も今、もがきながら次元を高めつつ進んでいます。」

パウロは、キリストのように生きなければ、救いを得られないと理解していたのです。

<ピリピ2:12> わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

パウロは、救いを得るための生活は「恐れおののきながら」、つまり神様の目を意識して行うべきだと言いました。

信仰生活を送る中で、悪魔やサタンが立ちはだかることがあります。だからこそ、ただ行うだけでなく、恐れおののきながら最善を尽くし、次元を上げる努力を続けることをパウロは強調しました。

3)誰よりも低くなられたキリスト

それでは、パウロが生きる目標としたイエス・キリストは、どのような「生」を生きられたのでしょうか。

さまざまな側面がある中で、使徒パウロはキリストを「最も低くなられた方」と表現しました。

<ピリピ2:6~8> キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

パウロが「ピリピ人への手紙」で教えた重要な点は、キリストのように「低くなり、へりくだって生きること」です。傲慢にならず、謙遜であることです。

キリストは神様の御子として、すべての権威を持ちながら、それを誇示せず、誰よりも低くなられました。そして、十字架の死に至るまで神様の御心に従順でした。

ただし、「へりくだる」とは、外見だけで頭を下げたり、常にニコニコしていることではなく、もっと本質的に「低くなること」を言っています。

キリストは、すべてを成し遂げて栄光を受けるべき方でありながら、私たちと共に歩み、私たちの目線に合わせてくださいます。

栄光の座にとどまらず、私たちを救うために降りてきて、誤解や不満を受けながらも共にいてくださる。

この姿こそ「低くなる」ということの象徴です。

<ピリピ2:2~5> どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。

このようなキリストの心、キリストの精神をもって、主と共に、へりくだって生きるとき、「一つになる」という御働きが起こります。

絶対に一つになれないと思っていた人とも、一つになれるのです。

一つになることが重要なのは、それによって初めて神様の愛の御心が成し遂げられるからです。私たちはキリストを頭とし、各自が肢体となる一つの体だからです。

一つになる秘訣は、主が示されたように、低くなり、相手を尊重し、相手を自分より優れた存在として認めることです。

そうすれば、分裂していたものが一つになり、心から許し、誤解が解け、一つになる御働きが起こります。

サッカーでも、一人のスター選手だけでは勝てませんが、団結して一つになったチームは強くなります。

同じように、キリストのように自分を低くし、相手を尊重することで、神様の愛が働き、御心が成し遂げられるのです。

言葉にするのは簡単ですが、実行するのは難しいものです。「ここまでする必要があるのか」と感じることもあるでしょう。

しかし、キリストは最後までそれを成し遂げました。

<ピリピ1:29> あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。

主と共に最後まで生きるためには、キリストの犠牲の愛を忘れてはいけません。

何をするにも、主と共に喜び、楽しみながら、苦しみも共にしなければならないと、パウロは語りました。

使徒パウロとピリピ教会との深い経緯

1)パウロがもっともつらい時に支えてくれたピリピの人々

パウロが言う「喜び」の本質は、人間的な楽しさとは異なり、主の中で一つとなって初めて得られる真の喜びです。パウロは、自身の体験を通じて、単に「メシヤに出会い天国に行けるから喜ぼう」という意味ではなく、主と共に神様の御心を成していく喜びを伝えました。

では、なぜパウロはこれほど深い御言葉を伝えることができたのでしょうか。

それは、ピリピ教会とパウロが特に深い信頼と愛情で結ばれ、ピリピ教会がかけがえのない存在だったからです。だからこそ、このような深いメッセージがピリピの人々に伝えられたのです。

ピリピ教会は、困難な時に唯一、パウロを経済的にも精神的にも支えました

パウロがあなたたちしかいないと証言するほど、特別な絆で結ばれていたのです。その絆がどのように築かれたのか、経緯を見てみましょう。

2)ピリピ宣教における聖霊の御働き

使徒行伝16章によれば、パウロはもともと東方のアジア地域(現在のトルコ)に行って宣教しようとしましたが、聖霊によって禁じられ、幻の啓示で西方のマケドニアに行くよう示されました。

こうして建てられたのがピリピ教会であり、その背景には聖霊の大きな御働きがあったのです。

<使徒行伝16:6~10>
それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、(中略)トロアスに下って行った。ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。

パウロはこの幻が、マケドニアに福音を伝えなさいという神の導きだと悟り、マケドニアに渡りました。そして、マケドニア地方の第一の町であり、植民都市だったピリピに行きました。

<使徒行伝16:11~12>
そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。 

パウロはピリピを3回訪れていますが、使徒行伝には最初にピリピを訪れたときの記録が残されています。

<使徒行伝16:13~14>
ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。

このように、パウロは神様の御心がある場所や、御心にかなう人や出来事に出会う前に、必ず祈りの場所に行き、祈っていたことがわかります。

そのような祈りの結果、ルデヤという人物に出会いました。ルデヤはピリピで最初の信者となり、ルデヤの家で教会が始まりました。ヨーロッパで初めて福音を受け入れてキリスト教に改宗した人です。

<使徒行伝16:16~18>
ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と、叫び出すのであった。そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。

ここでもパウロは祈りの場に向かう途中で人に出会いましたが、今回は占いの霊に取り憑かれた女奴隷に出会いました。パウロがその女から占いの霊を追い出すと、彼女を使って利益を得ていた主人たちは稼ぎ口を失い、パウロとシラスを訴えました

その結果、パウロとシラスは何度もむち打たれた後、投獄されました。

次の箇所では、ピリピの獄の中で神様が大きく働かれたことが書かれています。

<使徒行伝16:25~32>
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。(中略)すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。

トラブルに巻き込まれて獄に入れられても、パウロとシラスが祈りと賛美で神様をほめたたえていたところ、地震が起こり、鎖がすべて解けるという奇跡が起こりました。

さらに、自害しようとしていた獄吏を助け、彼の肉体の命も霊の命も救う御業が行われました。聖霊の御働きと祈りによって行われたのです。

その後、獄吏は家族も伝道し、ピリピの信者が増えていきました。

このように、苦難を通して神様のしるしが現れ、福音が広まり、ピリピ教会が建てられました

だからこそ、どんな困難に直面しても、それが<神様の御心を成す機会>であると悟り、「どんな時でも喜びなさい」と伝えたのです。

さらに、ピリピの人々はパウロを温かく迎え、信頼しながらその御言葉に従いました。そして、パウロが最も経済的に困難な状況にあったときも、物心両面で全面的に支えてくれたことが記録されています。

<ピリピ4:14~18> しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。(中略) わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。

ピリピの人々がパウロのために行ったすべてのことは、<神様への捧げ物>として神様が受け取られました

つまり、人間同士の愛で終わるのではなく、その中に聖霊の御働きがあり、祈りを通じて結ばれた関係は、神様に捧げられ、永遠の祝福として受け取られるのです。

だから私たちも、兄弟との間に真実な愛をもって助け合い、霊的にも物質的にも分かち合うとき、それは単なる人間同士の関係にとどまらず、神様に永遠に残るものとして捧げられるのです。

終わりに

パウロは、行動する前に自分の考えではなく、神様がどのように考え、働かれるかを深く祈り求めました。そして、聖霊の導きに従って行動しましたが、順調にはいかず、さまざまな逆境に見舞われました。獄に入れられ、鞭打たれ、誤解され、無念な思いを何度も味わったのです。

普通なら、「聖霊の言う通りにしたのに、なぜこんなことが起こるのか?」と落胆する状況でしたが、パウロは投獄されても神様と主への愛に満たされ、喜びながら賛美しました。

パウロはどんな状況でも、真実な愛と祈り、御言葉を持って最後まで歩み続けたのです。

そして艱難を通じて、ピリピの人々との絆を深め、さらに神様との関係が強まりました。

今、神様とキリストが私たちに何を求めておられるのでしょうか。それを知るには、まず自分の考えや習慣をパウロのように捨てることが必要です。

どんな困難に遭っても、神様が試練を通して大きな祝福を与えてくださると信じ、先に感謝と喜びを捧げることが大切です。これこそ、パウロの教えが示す道ではないでしょうか。

主の中で喜び、さらなる愛の実が結ばれることを祈ります。アーメン

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