使徒行伝

歴史書

使徒たちの凄まじい働き

1)使徒行伝とは?

使徒行伝は、ルカによる福音書の続編として書かれたもので、イエス・キリストが亡くなられてから、復活して弟子たちに現れ、昇天した後、弟子たちの活動を記録した書物です。

キリスト教の初期の様子とその活動を詳細に記録したことで、他に類を見ないユニークな作品になっています。紀元75~80年くらいにかけて書かれたとされています。

使徒行伝では、弟子たちがイエスの体となり、心情となり、イエスのように福音を伝えた様子がリアルに描かれています。その姿はまさに第二のイエスでした。

また、当初エルサレムを中心として伝えていた福音を、その当時世界の中心であったローマ帝国にまで伝播させた経緯の記録でもあります。

この時最も活躍した使徒パウロが書いた書簡集も、この使徒行伝の存在によって一層価値が高められ、この作品無しにはパウロの書いた数々の手紙を正しく理解するのが難かしっただろうと言われています。

ルカによる福音書は、ローマの人口調査から始まり、イエスが故郷のガリラヤを出て、サマリヤを通ってユダヤに行き、最後はエルサレムで十字架にかかり、そこで復活したところまでを記録しました。

これに対し、使徒行伝では、イエスが昇天したエルサレムから使徒たちの活動が始まり、その福音がユダヤからサマリヤへと拡がり、やがてアジア地方を経てローマ帝国にまで至った経緯が描かれています。

この手法を「キマスムス構造」と言い、互いに関連のある二つの説、ストーリーなどを反転させることで、より大きな感銘を読者に与えるのに寄与しています。

2)復活したイエスの最後の一言を成就させた記録

使徒行伝1:8を見てみますと、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」。とあります。

使徒行伝とはまさに、イエスが昇天される直前に残したこの一言を弟子たちが文字通り命をかけて、成していった経緯の記録なのです。

まずはエルサレムを中心として、福音が伝えられた様子が1章から6章に書かれています。

6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常に増えていき、祭司たちも多数、信仰を受け入れるようになった。

そして次の段階では、サマリヤとガリラヤまで拡がった記録が書かれています。

9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全土にわたって平安を保ち、基礎が固まり、主を畏れ、聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増していった。

その後、異邦人への伝道が本格的に進められました。

その中心になった地域が今のシリア地域のアンテオケです。

15:35 パウロとバルナバとは、アンテオケに滞在を続けて、他の人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。

さらにアンテオケを中心に今日のトルコ地域まで福音が宣べ伝えられるようになりました。

16:5 こうして諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった。

16:6 それから彼らは、アジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたのでフルギヤ、ガラテヤを通って行った。

ここで言うアジア地域とは、現在のアジア地域ではなく、トルコ地域を当時はそう呼んでいました。

さらに、聖霊の啓示と幻を見て、福音をペルシア、マケドニアまで拡げ、トルコの隣に位置するギリシャ半島に渡って、福音を拡げます。

16:9 ここで夜、パウロはひとつの幻を見た。ひとりのマケドニア人が立って、「マケドニアに渡ってきて、わたしたちを助けてください」と、彼に懇願するのであった。

19:20 このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

それから最後はイタリヤ、ローマにまで福音を入れていった記録があります。

28:16 わたしたちがローマに着いた後、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許された。

28:31 はばからず、また妨げられることもなく、神の福音を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた。

使徒たちは、様々な患難と迫害の嵐を経て、さらに宣教をするにあたっての諸問題も解決しながら、イエスの福音を、死をも恐れず大胆に宣べ伝えました。

聖霊を受けてイエスを悟った使徒たち

1)何が彼らを変化させたのか?

イエスが復活して弟子たちに40日間現れた後、彼らはわずか十日間で、別人のように変化しました。それ以前は、彼らが先生と呼んでいたイエスが逮捕されて十字架につけられ、鞭打たれて無残に殺されてしまうという状況の中で、使徒たちは皆逃げ隠れてしまい、散りじりになり、家に引きこもり、身を隠すという弱弱しい姿を見せていました。

しかしイエスが亡くなってからわずか50日間で彼らは別人のように変化しました

復活したイエスと共に過ごした期間がそのうち40日間、その後は共に集まり10日間祈り五旬節を迎えました。

使徒行伝2:1以下を見てみますと、

五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来たような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした。

とあります。彼らが共に祈りながら、五旬節を迎え、聖霊を受けることで、イエスがどういう方なのかを悟ったのです。メシヤとは、キリストとは、どういう方なのか、ということを表面的にではなく、真実に悟ったのです。

使徒たちの信じられないくらいの凄まじい働きはまさに、「聖霊を受けて、イエスのキリストであることを悟ったことによる力」だったのです。

イエスが誰なのかを悟ったことで、本格的に聖霊による御働きが彼らを通して起こるようになりました。

2)使徒たちによる名説教の数々

使徒行伝の特徴のひとつに、使徒たちによるいくつかの名説教が挙げられます。

ペテロによる説教が5つステパノによる説教がひとつ、ステパノはこの説教を語った後、殉教しました。そして、改心したパウロによる説教が4つ、あります。

これらの説教によって、多くの人々が改心し、イエスを信じるという奇跡の御働きが起きました。

それでは彼らがメシヤ、イエスをどのように証したのか、いくつか見ていきましょう。

使徒3:22~36を見てみますと、ペテロがイスラエルの人々に向かってイエスがキリストであることを大胆に証しました。この説教によってその日一日で3000人の人々が改心し、イエスを信じるようになりました。

<3:25~36>

ダビデはイエスについてこう言っている。「わたしは常に目の前に主を見た。主はわたしが動かされないため、わたしの右にいてくださるからである。(中略)あなたは命の道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たしてくださるであろう」

兄弟たちよ、族長ダビデについては、(中略)彼は預言者であってキリストの復活をあらかじめ知って「彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない」と語ったのである。このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。(中略)あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。

この説教を聞いた人々は「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と言いました。

ペテロは「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりが罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」と勧め、この言葉を受け入れた者たち3000人が、イエスの名によって改心し、聖霊のバプテスマを受けるようになりました。

また、7章はその全体がステパノによる信仰告白であり、命をかけた名説教でもあります。

彼は12使徒から選ばれた7人のうちのひとりであり、主に日々の配給や経済的なことを任されていました。7人は皆、信仰と聖霊に満たされた人々でした。

<6:8>さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。

しかし、偽りの証人たちによって、捕らえられ、大祭司の前に引き出されてしまいます。

そこで、ステパノが命をかけた大説教を行いました。

その内容は旧約の歴史を紐解きながら、イエスに至るまで、神様が預言者たちを通してどのように働かれたのかを証し、最後にこのように締めくくりました。

<7:51~53>「ああ強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちも同じである。いったいあなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。」。

人々はステパノのこの告白を聞いて激しく怒り、彼をめがけていっせいに殺到し、市内に引き出して、石で打ちました。彼らがステパノに石を投げつけている間、彼は「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と祈りまた大声で「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないで下さい」と言って、息を引き取りました。

彼は死の間際にも、聖霊に満たされていました。そうして天をみつめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っているのをはっきり見た、とあります。

もうひとつは改心したパウロによる名説教です

13章では、パウロとその一行がアンテオケに行き、安息日に会堂に入ると、会堂司たちから何か奨励の言葉をお話しくださいと頼まれ、パウロがそこで歴史に残る名説教をします。

その内容は、旧約時代のモーセからサムエル、そしてダビデに至る歴史を端的に語り、ダビデの子孫の中から救い主イエスが生まれたこと、バプテスマのヨハネがあらかじめ悔い改めのバプテスマを授けながら、イエスについて証をしたことなどをまずは話します。

<13:23~25>

神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救い主イエスをイスラエルに送られたが、その来られるまえに、ヨハネがイスラエルのすべての民に悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えていた。ヨハネはその行程を終わろうとするに当たって言った。

「わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしの後から来る方がいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値打ちもない」

しかし、イスラエルの指導者たちが、イエスを認めず、殺してしまったのだと話し、それでもイエスは朽ち果てることなく、復活したことを伝えました。

<13:27~40>

エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。また、なんら死に当たる理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。(中略)しかし、神はイエスを死人の中からよみがえらせたのである。(中略)

神は、イエスをよみがえらせて、わたしたちの子孫にこの約束をお果たしになった。それは詩編第二編にも、「あなたこそは、わたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ」と書いてあるとおりである。また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものにされた(中略)そしてモーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じるものはもれなく、イエスによって義とされるのである。

これを聞いた人々は、次の安息日にも同じ話をしてほしいと願い求め、その時にはほとんど全市をあげて、神の言を聞くために集まってきた、とあります。

一方でユダヤ人たちは、その群衆をみてねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対しました。そこでパウロとバルナバは、大胆にこう語ります

「神の言はまず、あなたがたに語り伝えられなければ、ならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちのほうに行くのだ」

このようにして、ステパノもパウロも聖霊に満たされて、激しい迫害の雨風を受けながらも、命を捨てて、イエスがキリストであることを証し続けました。

改心してからの使徒パウロの人生

1)パウロってどんな人?

使徒パウロはキリスト教を世界的な宗教に押し上げるのに多大な貢献をした人物です。

偉大な伝道者であるのと同時に、多くの書簡を残し、それらがそのまま新約聖書として収められています。これらの書簡集は今日のキリスト教神学にも大きな影響を与えたと言われています。

彼は裕福な家庭に生まれ、ユダヤ人でありながら生まれながらにしてローマの市民権を保有していました。そのため、ヘブル語とギリシャ語を話せるバイリンガルでした。

ベニヤミン族のユダヤ人として、パリサイ派に属し、エルサレムで高名なガマリエル一世のもとで律法を学びました。とても熱心なユダヤ教徒であったため、はじめはキリスト教徒を激しく迫害していました。ステパノを殺害する現場にも立ち会い、仲間が脱いだ上着の番をしていたと使徒行伝7章に書かれています。

パウロはキリスト教徒への迫害の息をはずませながら、主の弟子たちをみつけては縛り上げ、エルサレムに連れて来るための添書を求め、ダマスコの諸会堂に向かう途中で主イエスの御声を聴きます

これがまさに運命の出会いでした。

突然天から光がさして、彼を照らし、サウロは馬から落ちて地に倒れます。

この時イエスは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけます。

彼が、「主よあなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスだ。さあ立って、町に入っていきなさい。そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。この時サウロの同行者たちは声だけが聞こえ、姿は見えなかったと書かれています。

サウロはこの時強い光に照らされて目が見えなくなっていました。

その後、サウロはみ告げに従ってアナニヤという弟子の家に行き、アナニヤの祈りを受けた時に、目からうろこのようなものが落ちて再び目が見えるようになりました。

主イエスとの霊的な出会により、サウロはパウロとなって、新しく生まれ変わります

使徒行伝9章に詳しい経緯が書かれていますので是非ご一読ください。

主イエスはパウロを異邦人たちや王たち、またイスラエルの人々にもイエスの名を伝える器として選んだのであるとアナニヤに告げます。

そして、パウロがイエスの名のためにどれほど苦しまなければならないかを彼に知らせようとお話になりました。

サウロはパウロとなって改心してからも、イエスの弟子たちからは簡単には受け入れてもらえませんでした。そこで弟子のひとりであるバルナバが彼の世話をしながらサウロを使徒たちのところに連れて行き、主イエスが彼に霊であらわれて語りかけたことや、ダマスコでイエスの名によって大胆に証をしていた様子を使徒たちに説明してくれたので、ようやく仲間に加わることが出来るようになりました。

この時からパウロは主イエスの名によって大胆に福音を宣べ伝えはじめます

彼は生涯で3度の大伝道旅行に出かけました。その距離は合計約2万キロ地球半周にも及ぶ長距離を移動しました。現代のような交通機関も無い中で、この距離は驚異的な数字だと言えるでしょう。

2)パウロの悟り

パウロはイエスが生きていた時には一度もイエスに会ったことがありません

にもかかわらず、イエスがメシヤであることを悟って、死に至るまで忠誠を尽くしながら主イエスを証しすることができたのは何故なのでしょうか。

ダマスコに行く途中で目が見えなくなり、主イエスによって癒されるという奇跡を体験しましたが、それだけでここまでの変化をすることは難しいのではないかと思われます。

コリント第二の手紙12:2~4を見てみますと、

わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた。この人がパラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのをわたしは知っている。

とあります。パウロ自身が赤裸々に告白しているこの記述は、彼が霊界、すなわち第三の天、天国に行って、はっきりと主の姿を見、また主が語られた言葉を聞くという体験をすることで、彼は主イエスがどんな方なのかを根本的に悟ることができたのだと告白しています。

霊的に主の実体を見たパウロは、この時から自身が生きる理由をはっきりと悟るようになります。

「わたしが生きる理由は主イエスを証するため」であることを悟りました。

それからの彼の人生はいつも死と隣り合わせであり、彼を殺そうと追いかけてくる人々が、常に数十人、数百人もいました。何度も投獄され、鞭打たれながらかろうじて生きながらえ、伝道旅行を中断することなく続け、神の御心を成し遂げていきます。

3)生きているのはもはやわたしではない

ガラテヤ人への手紙2:19~20でパウロはこのように告白しています。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」

彼はこのように悟ったのではないのでしょうか。

「わたしは他の誰よりも地獄に行くしかない罪びとだ。キリストイエスを迫害し、さらにその弟子たちを激しく迫害し、ステパノを殺した現場にも立ち会った。にもかかわらず、主はわたしを許してくださり、それだけでも考えられないほどの祝福なのに、この罪人を主の御言葉を伝える器として用いてくださっている。神が下さる恵というのはこれほどまでに大きく計り知れないのだな。最も悪の側にいて、罪人の中の罪人であった愚かで無知な私が、このように許されて主に用いられるのだとするならば、もはや許されない人などひとりもいないのではないか、悔い改めて主イエスを信じて生きるなら、救われない人はひとりもいないに違いない」と。だからわたしはその働きのために生きようと。

パウロの覚悟と決意の心を聖霊が後押ししていました。

テモテへの第一の手紙1:15~16でパウロはこのように告白しています。

「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった。」という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠の命を受ける者の模範となるためである。

パウロが永遠の命を受ける人々の模範になろうとして、自分を磨き、削り、あらゆる罪の誘惑と戦いながら自身をつくり、さらには度重なるかん難と苦痛を経験することで練達を受け真の信仰者となり教師となっていく姿が思い浮かびます。

大切なのは、彼がそれらのことを一人で行ったのではなく、いつも主イエスが共にいて彼を励まし、共に働いていた、ということです。だからこそ落胆せず最後まで主の示す道を行くことができたのです。パウロの告白のとおり、彼の中にキリストがいて完全にひとつとなって働いていました。

4)ローマへの道、不可能を可能にした神の御働き

使徒行伝19:11では

神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。たとえば、人々が、彼の身に着けている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。

このように神から授けられた力あるわざを駆使しながらの宣教活動は勢いを増し、パウロとその一行の行く先々で福音が爆発的に拡がるようになりました。

その頃彼は聖霊の感動を受けて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムに行く決心をします。そして、「わたしはそこに行ったのち、ぜひローマをもみなければならない」と考えるようになります。パウロ自身の考えのようにして聖霊が働きかけていたのです。

聖霊は、このようにして神の使役をする人々にまずはやりたいという気持ちが起こるように感動を下さいます。

しかしこの頃パウロは、度重なる迫害や、過酷な伝道旅行の行程によって、すでに相当体力が消耗していました。だから、ローマへ行きたかったけれども、たどり着く前に殺されてしまうのではないかと危惧していました。

それではどのようにして、不可能に思えるような状況の中で、それを実現させたのでしょうか。

使徒行伝21:27以下を見てみますと、

アジヤから来たユダヤ人たちが、パウロを捕らえ、千卒長のところに連れていき、彼は二重の鎖でつながれます。そのような状況の中でもパウロは怯むことなく民衆に向かって、大胆に主イエスの証をします。パウロの話は途中でさえぎられてしまいましたが、彼が生まれながらのローマ市民であることを告げると、千卒長は恐れてパウロの縄を解きました。

翌日になると、今度は祭司長たちと、全議会が集まり、そこでも彼は自身について証をします。パリサイ派のある律法学者はパウロの話を聞いて、彼は何も悪くないといいましたが、争論は止まず、危険を察知した千卒長はパウロを兵営に連れていきました。

その夜、主イエスが彼に臨んで「しっかりせよ。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」と話されたのです。

このようにしてパウロは罪人のかたちをとりながら、ローマの兵隊たちに守られて、かれの身柄は安全に保護され、まずはカイザリヤに送られるようになりました。その数は、歩兵200名、騎兵70名、槍兵200名であったと記述されています。これはただ事ではない数です。まさに神がはかりごとを使って彼の身の安全を守ったのでした。パウロ一人を守るために、神は470名の兵士たちをお使いになったのです。

これが神様の方法です。

ローマの法律では、罪人であっても最後判決が出るまでは、その命が守られ、もちろん食事も与えられ、寝床も確保されます。自分たちで移動したならそれ相応の移動費などもかかりますが、罪人であればそれらすべての費用は国家が負担します。

そして何よりも大きなことは、裁判や取り調べの時に必ず罪人の話を聞かなければなりません。しかも裁判官だけがそれを聴くのではなくて、必ず聴衆の前で話をする必要があります。そういう決まり事が当時のローマにはありました。

ローマまでたどり着く過程の中で、ローマ総督、ユダヤのアグリッパ王にも、パウロは自分がなぜこのように捕らわれたのかを証するのですが、その話の7割くらいは主イエスのあかしでした。

ローマへの船旅でも、嵐によって遭難し14日間もアドリヤ海を漂流し、マルタ島に漂着します。島でパウロが火にあたっている時にマムシに手を噛まれますが、彼は無事でした。

それをみた人々は彼を「この人は神様だ」と言い出しました。

マルタ島には三か月ほど滞在し、ようやくとパウロの一行276名は無事にローマに到着します。

ローマでパウロは、ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許されたと書いてあります。

彼の宿には、大勢の人がつめかけてきたので、彼は朝から晩まで語り続け、神の国のことをあかしし、モーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて話をし、彼らの説得に努めました。ある者は受け入れ、ある者は信じようともしなかったと、あります。

パウロは二年の間、自分の借りた家に住み、たずねて来る人々をみな迎い入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主キリストのことを教え続けました。

という言葉で使徒行伝は締めくくられています。

人間の考えではとうてい思いつくことができないほど、鮮烈な方法を使って、神様はパウロをローマに送り込みました。神様の視点では、「ローマに福音を入れること」が目的ですから、その御心を成すために、その時できる最善の方法が、パウロを罪人として安全に命を守られながら、移送することだったのです。そうしなかったなら、彼はとっくにユダヤ人たちに捕らえられて殺されていたでしょう。

「目的は目的だ」という全能な神の意思を感じ、驚嘆せざるを得ません。

異邦人への宣教

使徒行伝10章と11章には、異邦人への宣教のきっかけその妨げになった問題点をどのように解決していったのかが書かれています。

イスラエルの北西部にある、地中海に面した町カイザリヤ地方に、コルネリオというイタリヤ部隊の百卒長がいました。

彼は信心深く、民によく施しをし、絶えず熱心に祈っていました。

そんなある日、幻の中で神の使いがコルネリオに現れ、「あなたの祈や施しは神のみ前に届いておぼえらえている。ヨッパに人をやって、ペテロを家に招きなさい」というみ告げを受けます。

同じころ使徒ペテロも夢うつつの中で啓示を受けます。

啓示の内容は、天が開けて、大きな布のような入れ物が吊るされ地上に降りて来て、その中には、四つ足や這うものなど各種の生き物が入っていました。

「ペテロよ。立ってそれらをほふって食べなさい。」と声がしました。

ペテロは、「清くないもの、穢れたものは何ひとつ食べたことがありません」とこたえると、

「神が清めたものを、清くないと言ってはならない」と声がしました。

同じことが三度あった後、コルネリオの使いがペテロのところに訊ねてきて、ペテロはコルネリオの家を訪問するようになります。

コルネリオは親族や友人たちと共にペテロを出迎え、ペテロの証を聞いて皆、聖霊を受けるようになりました。この時ペテロは自身が夢うつつでみた啓示を解いて伝えました。

「神はどんな人間をも清くない、とか穢れているとか言ってはならない、とお示しになりました」これはユダヤ人が他国の人と交際することを禁じられていたので、これからはそうしてはならないと神のみ告げを受けたことを証したのです。

また、割礼を重んじるユダヤにいる兄弟にも同じような証をして説得に努めました。

ペテロが異邦人コルネリオとその全家族に御言葉を伝えると、聖霊がその上にくだってきたこと、「わたしたちが主イエス・キリストを信じた時にくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、どうしてわたしたちが神を妨げることができようか。神は、異邦人にも命にいたる悔い改めをお与えになったのだ」と神をさんびしました。

このようにして、異邦人に福音が入るようになり、主を信じる人々がますます増えるようになりました。

そこで教会は聖霊と信仰に満ちたバルナバをアンテオケにつかわし、彼は故郷に帰っていたパウロを探してアンテオケに連れ帰り、共に教会で大勢の人々を教育し教えました。

このアンテオケではじめて、主イエスの弟子たちをクリスチャンと呼ぶようになりました

神様が異邦人コルネリオと、頭弟子のペテロを引き合わせてくださることで、異邦人宣教のさまたげになっていた大きな問題を解くようになりました。

コルネリオは神様の御声を聞くことができるほどまでに、熱心に祈り、善行を重ね、主イエスを深く信じていました。

たったひとりの真実なおこないを神様は見逃さずに見ていてくださり、閉じられていた歴史の扉を開いてくださったのです。

激しい論争や迫害をバネにして加速した宣教

1)ステパノの説教によって大迫害が起こり、散らされた信徒たち

使徒行伝8章を見てみますと、

ステパノがユダヤの人々の前で世紀の名説教をしましたが、この説教によってむしろ迫害が極的に激しくなり、使徒以外の信徒たちはエルサレムにはとどまることが出来なくなりました。そこで仕方なく彼らはユダヤとサマリヤ地方に散らされるようになります。

しかし行った先々でその地域の人々にキリストイエスを伝えるようになり、むしろ宣教が加速しました。

<8:12>ピリポが神の国とイエス・キリストの名において宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。

その話を聞いたペテロとヨハネはエルサレムからサマリヤに下って行きました。

彼らのために祈ると、聖霊を受けるようになった、とあります。それまでは、主イエスの名によってバプテスマを受けただけで、聖霊はまだ誰にも下っていなかったからである、と記録されています。

このように、まずは信徒たちがイエスの御言葉を伝え、人々がイエスを受け入れたことを確認したうえで、今度は使徒たちが赴き、彼らの上に手をおき祈ることで、聖霊を受けるようになった、ということが詳しく記録されています。

福音によってイエスを信じるという信仰の土台をまずは築き、それから「キリストイエスを悟る」、すなわち「聖霊を受ける」段階に至る。これが非常に大事なことであることが理解できます。

2)パリサイ派からの改宗者たちとの激しい論争

使徒行伝15章を見てみますと、パウロとバルナバがアンテオケに滞在していた時、パリサイ派からの改宗者たちと二人との間に激しい論争が起きます。

それは、異邦人にも割礼を施し、モーセの律法を守るべきだ、というパリサイ派からの改宗者たちの意見があったためで、二人と数人の信徒たちはエルサレムに上り、使徒たちや長老たちとこの問題について協議することにしました。

そこでも激しい論争があったのち、まずはペテロが人々を諭し、「人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜ったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、またその信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間になんの分けへだてもなさらなかった。しかるに諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も負いきれなかったくびきをあの弟子たちにかけて、神を試みるのか」と全会衆に話すと、

さらにヤコブが、「異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるようにと、彼らに書き送るようにしたい」と述べました。そこで、これらのものから遠ざかっていればそれでよろしい、という書面をアンテオケに行くパウロとバルナバ一行に託すようになり、アンテオケの人々はこの知らせを受けてとても喜んだ、とあります。

このように、何人も主イエスを信じることで救いを受け、真実に悔い改めることで聖霊を賜り、「キリストを真実に悟る御働き」が起こるという、クリスチャンへの道が形成されるようになりました。

3)パウロとバルナバの衝突

一見落着かと思いきや、またまた激しい論争が今度は仲の良かったパウロとバルナバとの間で起きます。事の発端は、アンテオケからさらに過去に福音を伝えた町々に行ってどうしているかを見に行こうとパウロが発案し、バルナバはマルコ(のちの福音書記者)も一緒に連れて行こうと提案したら、パウロは、前回の伝道旅行で途中離脱したマルコとは一緒に行きたくないといい、結局、パウロとバルナバは別行動をするようになります。(使徒行伝16章)

バルナバはマルコを連れてクブロに行き、パウロはシラスと共にシリヤ、キリキヤの地方を通ってさらにデルベ、ルステラに行き、そこでテモテという名の弟子と会います。

このように喧嘩別れをしたことによってそれぞれが別のルートを行き、危機的な状況になったように思えましたが、むしろより広範囲の地域に福音が入り、アジヤ、トルコ、となりのギリシャ半島、さらにはマケドニヤにまで福音が入ったのです。

昇天する間際に伝えられた主イエスの預言がこのようにして成就されたのでした。

神様の御心というのは、どんなかたちで成されるのか、我々人間には全く想像ができません。だからこそ、思ったとおりにならないのだとしても、落胆せず、いつも感謝して喜び、御心に委ねるという信頼の心を持ち続けることが大切です。

危機を絶好の機会に変えて、使徒たちのようにたくましく生きる知恵を、神様からいただけるように祈り求めます。

使徒行伝は別名、迫害行伝と言えるくらいに、激しい迫害と困難が止むことなく次々と起こりますが、その逆風によってむしろ考えられないくらいのすさまじい命の御働きが起こるようになりました。

使徒行伝とは、使徒たちが聖霊を受けることで、キリストが誰なのかを悟り、同時に自分の使命を知り、第二の主の体となって新約時代の礎を築いていく。

その過程を非常にリアルに描いた記録なのです。

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