キリストの奥義を伝える獄中書簡
1)コロサイ人への手紙とは
コロサイは、大都市エペソから約160キロ離れた南フリギュアのリュコス渓谷(現在のトルコ)に位置していました。
この渓谷にはコロサイのほかに、ラオデキヤ(コロサイから西へ約15㎞)とヒエラポリス(コロサイの北西に約20㎞)という都市があり、これらの3都市は幹線道路沿いに集まっていました。
その中でもコロサイは最も重要な都市であり、毛織物工業で栄えていて、多くのユダヤ人が住んでいました。
なお、パウロ自身はコロサイに宣教のために行ったことはなく、この街にある教会を訪れたこともありませんでした。
コロサイに福音を広めたのは、パウロの弟子であるエパフラスでした(コロサイ1:7)。パウロは弟子エパフラスからコロサイの教会についての知らせを受けて、事情を把握したと書かれています(コロサイ1:4、1:8)。
エパフラスは、西暦50年代の半ばにエペソに滞在しており、その際にパウロから伝道されました。その後、故郷のコロサイに戻り、教会を設立しました。また、近隣のラオデキヤやヒエラポリスにも足を運んで宣教活動を行い、教会を立てたとされています(コロサイ4:13)。
「コロサイ人への手紙」は、エパフラスが福音を広めたラオデキヤやヒエラポリスの信者たちも念頭に置いて書かれており、パウロは彼らにもこの手紙を読んでほしいと依頼しています(コロサイ4:16)。
ローマの獄中でパウロと共に囚われていたエパフラスは、コロサイ宛の手紙を執筆してほしいとパウロに切望しました。
その理由は、コロサイの信者たちがイエス・キリストを受け入れたものの、他のさまざまな教えも受け入れていたからです。
それにより、雑多な教えが入り混じり、折衷的な信仰が次第に形成されていたため、パウロもエパフラスも心を痛めていました。(コロサイ2:1、4:13)。
そのため、パウロは西暦62年頃に獄中でこの手紙を書きました。
2)御子の奥義
「コロサイ人への手紙」では、パウロの他の手紙と比べて、御子についてより詳細に説明されています。
第1章の15節から20節において、キリストがすべてのものに勝る存在であることが述べられ、キリストを知ることで神を知ることができるという深い奥義が語られています。
<コロサイ1:15> 御子は、見えない神のかたちであって
神は霊であり、肉体を持たないため、私たちは神を見ることができません。しかし、御子が「見えない神のかたち」であると書かれているのは、御子が神と同じ本質や性格を持つことを意味します。
したがって、イエスの弟子が「主よ、私たちに父を示してください。そうしてくだされば、私たちは満足します」と願った際、イエスは「私を見た者は父なる神を見たのです」と明確にお答えになりました(ヨハネ14:8-9)。
<コロサイ1:15-16> すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
神はすべての被造物、すなわち天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、すべて「御子にあって造られた」、「御子によって造られ、御子のために造られた」と記されています。
これは、目に見える万物だけでなく、天使などの目に見えない霊的存在まで、御子が神と共に創造に関わったことを意味します。そのため、御子はどの被造物よりも高い地位にあり、それらを治める力を持っているのです。
<コロサイ1:17> 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
御子は万物より「先」であることが再度述べられています。つまり、キリストがすべての存在の中で最高の地位を持っていることを強調しています。
また、御子によって「万物が成り立っている」とは、御子が万物を治めており、御子によってこの世界の秩序が維持されていることを意味します。
<コロサイ1:18> そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
パウロは次に、キリストが教会の「かしら」であることを示しました。(「教会」とは、建物を指すのではなく、すべてのクリスチャンを指します。)そのため、キリストは信徒ひとりひとりの「頭」であり、信徒はキリストの肢体です。
また、キリストがすべてのことにおいて「第一の者」であるため、他のものをキリストの上に置くべきではないと教えています。
<コロサイ1:19> 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ
御子が神の徳に満ちているということは、神の本質、性格、愛、真理、力がすべて御子の中に含まれていることを意味します。
つまり、キリストの中にすべてが含まれているため、キリストを信じ受け入れることで、神と深く通じることが可能になるのです。
パウロはコロサイ人への手紙の2章でも同様に述べています。
<コロサイ2:9> キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており
神はご自身の「いっさいの徳」を、目に見えるキリストという存在に注ぎ込んでいるため、キリストを見ることが神を見ることと同じだと述べました。
<コロサイ1:20-22> そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。
しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。
罪によって神との関係が切れてしまい、神と敵対していたすべての人、万物、霊的存在を、キリストは十字架の犠牲によって神と「和解」させ、平和を作り出しました。
このように、コロサイのクリスチャンたちもかつては神に背を向け、罪の中で生きていましたが、キリストを受け入れることでその罪が許され、「聖なる者」として生まれ変わったことを、パウロは思い起こさせています。
コロサイ教会に入り込んだ深刻な問題
1)混然とした信仰
コロサイは交易の中心地であり、さまざまな地域から人の往来が多く、多様な情報や思想が入りやすい地域でした。そのため、コロサイの人々は常に新しく刺激的な思想に触れる機会がありました。
パウロがキリストについてとりわけ詳しく述べた理由は、キリストを明確に知ることで神と人間を区別し、人間から出た言葉に惑わされないようにするためでした。
<コロサイ2:4> わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。
<コロサイ1:23> ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。
コロサイのクリスチャンたちは、すでにイエスの御言葉を聞き、イエス・キリストを救い主として信じて従っていたにもかかわらず、次々と入ってくる雑多な教えに関心を持ち、真理から次第に逸れていきました。
そのため、パウロはクリスチャンたちに神の真理にしっかり立つよう促しました。
<コロサイ2:6-7> このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
偽教師の教えは、さまざまな信仰、文化、思想が入り混じったものであり、真理を曇らせるものでした。
さらに、極端な禁欲主義や天使崇拝、偶像崇拝、ユダヤ教の割礼など、イエスが教えた真理とは異なる考えをクリスチャンたちに強いていました。
<コロサイ2:8> あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
「むなしいだましごとの哲学」とあるように、どれほど賢明で有益に思える言葉であっても、人間から出た言葉に従うと神の人にはなれず、「人のとりこ」になってしまいます。
「世のもろもろの霊力」とは、神ではない雑霊を指します。低級な霊に従うことで救いを失ってはいけないため、それに騙されてはいけないと警告しています。
<コロサイ2:16> だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
「これは食べてはいけない、これは飲んではいけない」や「新月の時にはこうしなさい」といった迷信的な考えに影響されてはならないと述べています。これらはすべて救いとは無関係なものであるからです。
このように、コロサイ教会には、メシヤを信じる以前の生活習慣や風習、文化や思想が捨てられずに根強く残っていました。
その結果、何か問題が生じると、神様とメシヤを中心に据え、その御言葉に基づいて解決を図るのではなく、キリストには頼らず、従来の習慣や風習、文化に依存し、世の中と妥協した生き方をしていたのです。
2)問題の根本原因
それではなぜ、このような問題が起きてしまったのでしょうか。
<コロサイ1:9-10> わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、(中略)神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。
まず、コロサイの人々がまだ御言葉を深く学んでいなかったため、十分に神について理解していないことが問題でした。
もし深く悟っていたなら、他の教えや言い伝えに心が奪われることはなかったでしょう。なぜなら、キリストの中に神様のすべてが含まれているからです。
そのため、パウロは御言葉を伝えることを自分の最も大きな使命と考え、自身が直接設立した教会ではなくても、獄中にいても福音を宣べ伝えることに全力を尽くしました。
<コロサイ1:28-29> わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
二つ目の理由として、人々はキリストを信じて愛していると言いながら、心は天のものよりも目の前の現実の問題に重きを置いていたのです。
つまり、人々が願い求めていることと、神様が願い求めていることが異なり、優先順位が違っていたのです。
神様を信じているものの、優先順位としては、まず自分の目の前の問題を解決してほしいという思いがあります。具体的には、まず病気を癒してもらいたい、あるいは、まず欲しいものを手に入れたいという願望があるのです。
一方、神様の優先順位は、「すべての権能・能力・御力をメシヤに与えたから、まずはもっとメシヤを知り、メシヤを研究し、メシヤと一体になりなさい」というものです。
神様は私たちの願いをすべて聞いてあげたいと思っています。祝福を与えたいし、病気を癒してあげたいと願っています。ただし、すべてのことがメシヤの中に与えられているため、まずはメシヤと一つになりなさいと教えているのです。
さまざまな問題は、神様とメシヤと一体になることで、一番早く、一番効果的に、最も理想的な形で解決できます。
問題が大きいほど、神様にもっと集中し、メシヤにもっと意識を向け、愛し、ひとつになることで、根本的に問題が解決できるのです。
だから、神様が私たちに求めているのは、「神様そのものを愛しなさい。メシヤそのものを愛しなさい」ということです。
神様やメシヤを通して何か別のものを得ることに重点を置かず、神様を得ること、キリストを得ることに努めなさい、と言いました。
神様、キリストの中にすべてが入っているため、神様を愛することで満ち足りた人生を送ることができるからです。
しかし、人々はキリストを信じているものの、キリストを信じることで世の中のさまざまなものを得ることに心が傾いているため、それが得られなければ、キリストを信じても寂しく、満たされませんでした。
その状態が長く続くと、心の喜びがなくなり、信仰が形骸化してしまいます。
<コロサイ2:9-10> キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
<コロサイ3:11> キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
人生を満たすすべてのやりがい、幸せ、答えがキリストの中に詰まっています。だからこそ、時間がかかっても、手間がかかっても、門をたたいて祈り、御言葉を聞いて、キリストの中に答えを見つけなさいと、パウロは教え諭しました。
しかし、人々は自分の現実の中で差し迫る問題を解決するために、より手っとり早く、簡単で即効性のある方法、つまり他の人が使っている方法に頼る傾向があります。その方が効果的に感じられ、その瞬間は心も体もすっきりするからです。
その結果、世俗的な考えに流されていき、「世のもろもろの霊力」、つまり占い師やまじないなどの低次元なものに頼ってしまうのです。そういったものに溺れてはならないと、パウロは指摘しました。
<コロサイ2:18> あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、
キリストとは関係のないところで、霊を見たとか、低級な雑霊などを見たと誇る人々がいますが、そうした経験をあたかも霊的なものとして錯覚してはならないと、パウロは言いました。
<コロサイ2:20-23> なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。
人間から出た言葉は、知恵の言葉のように聞こえるかもしれませんが、人間が罪から離れ、救われるためには何の役にも立たないと述べています。
それにもかかわらず、人々は天国に行くことよりも目の前の問題をより重視し、人間的な知恵を得ることに心を奪われていたのです。
<コロサイ3:1-2> このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
パウロは、地上にあるものではなく、天にあるものを求めなさいと語りました。神様の御旨を願い求めれば、キリストを愛することから満足と喜びを得られ、地上のものや人間の言葉に心を惹かれることがなくなるのです。
キリストの中に隠された宝
1)主のように生きなさい
使徒パウロは、あなた方の中にいるキリストにすべての問題の答えがある、つまり宝があると繰り返し教え説きましたが、問題は、それが「隠されている」ということです。だからこそ、簡単には見つからないと話しました。
<コロサイ2:3> キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
<コロサイ1:27> 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
このように、キリストを信じる上で難しい点は、宝が「隠されている」ために、その貴重さを実感できないことにあります。
キリストにすべての権能、権勢、御力、祝福、喜び、答え、願い求めがあることを聞いていても、それが隠されているために実感できず、結局は簡単に手に入る世の中のものに心が移ってしまうのです。
キリストの中にある宝物、つまり願いを求めている最高のものを見つけるための秘訣は何でしょうか。
聖書では、ひとことで、「キリストのように生きてみなさい」「キリストのように行いなさい」と書いてあります。
キリストのように生きてみてこそ、行ってみてこそ、その中にある宝物が見えるように、神様はそのように創られたのです。
そこで、パウロは人々に「新しき人を着なさい」、すなわち主イエス・キリストを着なさい、と勧めました。
聖書では「行い」は「服」にたとえられています。「キリストという服を着なさい」とは、「キリストのように生きてみなさい」「キリストのように行ってみなさい」という意味です。
ひとつだけでも実践してみることで、キリストの中に隠されている宝を発見できるのです。
大変でも、時間がかかっても、まずは主イエスのように行ってみなさい、メシヤの中に宝物を見つけなさい。
それによって問題解決はもちろんのこと、自分自身がその過程を通してメシヤのように作られ、メシヤに似た存在に成長していく。それこそが神様が願っている御心だと教え説きました。
<コロサイ3:9-10> あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
<コロサイ3:12-13> だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。(中略) 主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
使徒パウロも、毎日の生活を送る中で、獄中の難しい状況や環境の中で、壮絶にもがきながらキリストのように行っていたからこそ、このような言葉が生まれたのです。
2)地上にあるすべてのものを「永遠な世界」のために使いなさい
神様とイエス様の御心は、私たちを永遠の世界である天国に連れて行き、ともに生きることです。
そのためには、この地上で私たちの肉体や万物、時間を使い、自分自身をキリストのように作りなさいと述べました。すべてを天国に行くために活用することが最も価値のある使い方であると教えています。
私たちの心や考えや精神が、永遠の世界や天国を思うのであれば、地上の空しいものに心を奪われることはありません。
むしろ、地上にあるものはすべて「永遠な世界」のために使うように造られました。神様は万物も人間も「御子のため」に造られ、「永遠な世界」に行くために創造されたのです。
そのため、「永遠な世界」のために最高に価値のある形ですべてのものを使って生きるとき、私たちは甲斐を感じ、喜びを得ることができるのです。
また、そのように生きていく中で、自分の問題もいつの間にか解かれて、キリストに似た存在として成長することができます。
神様の御言葉を聞くと、神様の考えで生きられるようになり、神様の願いが自分の願いとなります。御言葉を聞くことで、キリストの精神が自分の精神となり、メシヤのような実践ができるようになるのです。
<コロサイ3:16> キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。
コロサイ人への手紙で最も言わんとしていることは、「キリストの中に隠されている神様の神性、御力、知恵の宝を見つけてみなさい」ということです。この遥かに高次元の宝をどうやって見つけられるのか、それはキリストのように生きてみることです。生きてみてこそ、隠された宝を豊かに見つけることができるのです。これがこの手紙の核心です。
3)感謝の生活
もしキリストの中に満ち溢れる宝を心では実感できず、満足できない場合、そのギャップはどのように埋めるべきでしょうか。
あふれるばかりに感謝をすることだとパウロは言いました。
感謝すればするほど、どれほどの恵みと祝福を与えられているのかに対して目が開かれ、実感できるようになります。そして、実感が伴ったときにはじめて、古い習慣や行いを捨てられるようになるのです。
<コロサイ2:7> また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
<コロサイ3:15-17> いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。(中略)感謝して心から神をほめたたえなさい。(中略) いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
感謝することで、肉的な目が霊的な目に開かれ、キリストのなかに満ちあふれる恵みがわかるようになります。そして、それを実感できれば、古いものや不要なものを自然と手放すことができるようになるのです。
4)主に接するように人にも接しなさい
さらに、キリストのように生きる実践のもうひとつの秘訣として、「すべての人に主に接するように接しなさい」と書かれています。
すべての人は貴重なので、すべての人を大切にし、主に接するように接しなさい。その人を通して働かれる神様を意識しながら接すること。そうすると、その人に接したことが、結局は神様に接したこととして受け取られ、行った通りに豊かに報いてくださいます。
<コロサイ3:22-24> 何事についても、(中略)目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。
このように、主に接するように人に接したことによって、その報いとして御国を継ぐという素晴らしい祝福を受けるようになります。
私たちが日々の生活の中で何気なく人に接していることが、そのまま神様と主に接していることとして、天で受け取られているのです。
目を覚まして祈ること
「コロサイ人への手紙」という短い書簡の後半には、信仰者がどのように生活し、問題や悩みの答えを得られるかという実践的な御言葉が含まれています。
コロサイ人への手紙の核心は、キリストの中に隠されている宝を見つけ、その宝を実感しながら生きることにあります。宝を見つけることができれば、過去の考えや習慣など、捨てるべきものを捨てることができるのです。
しかし、それが難しく感じて行うことができない場合、可能にする方法があります。
それは、「目を覚ました祈り」、つまり切実に、真心を込めて感謝しながら祈ることです。
<コロサイ4:2> 目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。
イエスも弟子たちに対して、目を覚まして祈れば誘惑に陥ることがないと言いました。
<マタイ26:41> 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。
目を覚ました、生きた祈りをすることで霊性が目覚め、神様の御心に沿って生きることができるようになります。
すると、過去の肉的な生活や行いから抜け出し、よりキリストに似た霊的な人生に転換することができます。
<コロサイ3:5-8> 地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。(中略)これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
このように、以前の生活から転換しなさい、と書いてあります。
そして最後に、使徒パウロは、自分自身のためにも祈ってほしいと懇願しました。
<コロサイ4:3> 同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。
<コロサイ4:18> わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい。
パウロは、神様の深淵な秘密の御言葉を伝えるために、深い祈りを捧げ、その御言葉を受け取るために自分は獄につながれていると告白しました。
キリストの中に隠されている宝を掘り出すことは簡単ではありません。キリストのように生きてみて初めて見いだせるようになるからです。
主のように、毎日持続的に行い、祈りの感覚をつかむことで、永遠の宝を手に入れることができるようお祈りいたします。