他の福音書とは一線を画した「霊的な書物」ヨハネによる福音書
ヨハネってどんな人?
使徒ヨハネは、12弟子の中でも、イエスの三側近(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)の一人で、イエスの弟子になる前はバプテスマのヨハネの弟子でした。
ヨハネによる福音書の冒頭で、バプテスマのヨハネについての記述が詳しく書かれていたのも、バプテスマのヨハネがイエスについて、どのように証をしていたのかを隣で聞いていたからなのですね。
イエスに出会う前は彼もペテロと同じように、ガリラヤ湖で兄のヤコブと一緒に漁師をしていました。
イエスの最側近の三人が皆、漁師であったというのも非常に興味深いです。
彼の性格はどちらかというと短気で怒りっぽかったようです。マルコ3:17では、兄のヤコブとヨハネには、ボアネルゲ、すなわち雷の子という名がつけられたとあります。
また、ルカ9:54では、イエスを歓迎しない村人たちに怒り、「主よいかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」と言って、イエスに叱られている様子が描かれています。イエスを愛していたからこそ、イエスの心情を誰よりも早くくみ取って、このようにしてイエスの心を慰めようとしたのではないでしょうか。
使徒ヨハネは自らを「主が愛した者」「主が愛しておられた者」と自分の名前を出さずに表現しています。
実際にそれはそのとおりで、ヨハネはいくつかの非常に大事な場面でイエスに同行することを許されていることがわかります。
イエスのゲッセマネの祈り、イエスの姿が変容する時、最後の晩餐の準備をペテロと共にまかされていましたし、また、イエスを裏切りる者がイスカリオテのユダであることも、最後の晩餐の席でイエスのとなりに座ってイエスの胸に寄りかかりながら、ヨハネだけが教えてもらっています。
さらに、イエスの十字架の処刑の時も、12弟子の中ではたったひとり傍にいて最後までイエスを見守りました。その時、イエスから
母マリヤの息子になりなさいと言われています。
実際にヨハネは、イエスが亡くなられた後、イエスの母マリヤと一緒にエペソに住むようになりました。
その後はパトモス島に幽閉され、そこで、イエスからうけた啓示を、黙示録というかたちで著しました。
ヨハネは12弟子の中でたったひとり、殉教せずに天寿をまっとうしました。
90歳くらいまで生きたそうです。
晩年は、エペソに戻り、その時にこの福音書を書いたと言われています。
永遠な命とは何か – ヨハネ福音書は「永遠の命」がキーワード
ヨハネによる福音書では、「永遠の命」もしくはそれを示唆する言葉が随所に記録されています。
- 3:16 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
- 5:24 わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死からから命に移っているのである。
- 5:39 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証をするものである。
- 6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。
- 17:3 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。
これら以外にも、3:36、4:14、4:36、6:27、6:33、6:35、6:40、6:47、6:50、6:51、6:54、6:58、6:68、10:28、12:25、12:50に、「永遠の命」という言葉が記録されています。
イエスの言う永遠の命とはいったい何なのか、その答えになるヒントの聖句が以下にあります。
ヨハネ6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
イエスの言う「永遠の命」とは、わたしたちの霊について言っていたのだということがわかります。肉体が死なないで永遠に生きるのではなく、神とそのひとり子御子を信じることで、また、父なる神様が世につかわした御子が誰なのか、どういう方なのかを知ることで永遠に生きた霊になると話していたのです。
命のパン
また、ヨハネ6:1~13を見てみますと
イエスがピリポをためそうとして「どこからパンを買ってきて人々に食べさせようか」と訊ねます。イエスは何をためそうとしていたのでしょうか?
ご自分ではしようとしていることをよくご承知であったとあります。
その後、その場に集まった人々五千人に5つのパンと2匹の魚を分け与え、彼らの望む分だけ与えられた、とあります。
6:26では、あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである、とイエスは話されました。
イエスもその家族もパン屋さんではありません。
それならどのようなパンをイエスは人々に食べさせたのでしょうか?
マタイ16:5~12では、
パリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒せよとイエスが言ったのを聞いて弟子たちは、自分たちがパンを持ってこなかったのを指摘されたのだろうと言って互いに論じ合っていると、
イエスは「信仰の薄い者たちよ、まだわからないのか、覚えていないのか、5つのパンを五千人に分けた時、幾かご拾ったか、わたしが言ったのは、パンについてではないことをどうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」、
と聞いてようやく弟子たちは、パン種とは文字通りのパン種ではなく、パリサイ人とサドカイ人の教えであると悟った、とあります。
ヨハネ6:35では
わたしが命のパンである。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して乾くことがない。とあります。
イエスはご自身のことを命のパンだと言いました。それはすなわち、命の御言葉、霊魂の糧である御言葉をパンにたとえたのです。
6:68ではペテロがイエスに「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠な命の言葉をもっているのはあなたです。」と告白しました。
このようにヨハネによる福音書では一貫して、「霊的な救い」について記述されていることがわかります。
霊が救われることが何よりも重要だ、だから霊の食物である命のパンを食べなさい、わたしが命のパンだ、とイエスは話されていたのです。
そして、命のパンとはまさに、イエスの話される永遠な命の御言葉のことでした。
御子なる神と人間イエス
全能な神、御子とその肉体
ヨハネ1:1から1:3をみてみますと、
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
とあります。
ここで言う「神」とは、天地創造をおこなった神を意味しますが、それだけではなく、その神様と共にいた、もう一人の神様がいる、「ひとり子なる神」がいるということを、衝撃的にヨハネは語っています。
ヨハネ1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネ1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
もう一人の神とは、全能な神のひとり子、つまり御子であり、御子なる神が、イエスの肉体をご自身の体のように用いている(1:17 めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである)ということを、冒頭部分でいきなり大胆にヨハネは証しました。
二千年前に既にヨハネは、全知全能な神様とは別の、もうひとりの神の存在、<ひとり子なる神、御子>がいることを示し、その神、御子は言葉で、すなわち御言葉で現れる神だと証したのです。
この部分を読めば読むほど、鳥肌が立つくらいに驚愕します。戦慄します。
ここでヨハネは、あらためてイエスがどのような存在なのかを明らかにしています。
それは、キリスト・イエスが全能な神、御子としての使命、役割を果たしながら、同時に、神は霊で存在しているので、この地上で人間と通じ合うためには御子の肉体になる体が必要であり、それが他ならぬイエスなのだと証しました。
我々人間と同じ肉体を持ちながら同時に全能な神、御子としての使命をこの地上で行うために来られたのが、イエス・キリストだ、ということをヨハネは非常に霊的な言葉と表現で証したのです。
そういうわけでヨハネ福音書には、全能な神、御子としての働きについて書かれているのと同時に、人間としてのイエスの姿も描かれているのです。
このことをはっきり裂いて知ることがキリスト・イエスを知る上であまりにも重要です。
知ることがまた、永遠の命を得ることだからなのです。
人間としてのイエス
人間として描かれているイエスの姿をいくつかみていきましょう。
- ヨハネ4:6 イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。
- ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。
- ヨハネ19:28 そののち、イエスは今や万事が終わったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。
このように、我々と同じ肉体をもっていたイエスが、旅の疲れも感じ、愛する人の死を悲しみ、また喉が渇くという、我々と変わらない人間的な姿をヨハネは描いています。
永遠の命の御言葉を伝えれば伝えるほど、憎まれ、蔑まれ、迫害を受けた時の心の痛みはどれほどだったでしょう。
そうだとしてもイエスは全能な御子がくださる命の御言葉を伝える使命を最後まで全うしました。
その御言葉が我々に、永遠な命を与える糧であることを知っていたからです。
ましてや十字架の死の痛みと苦痛はどれほどだったでしょう。
しかしその道を行かなければ、イエスが苦い杯を飲まなければ、誰も救われないことを知っていました。
もしもイエスが迫害や死を恐れて、御子が下さる御言葉を伝えなかったなら、迫害も受けず、十字架にかかる必要もなかったと思います。
人間でありながらイエスは最後の最後まで、父なる神様とご自身の中に宿っていた全能な御子の御言葉と御心に従順したのです。
全能な神、御子としてのキリスト・イエス
一方で、イエスは全能な御子としての働きをし、御子自身の御言葉を伝えています。
ヨハネ8:58 よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである。
ヨハネ17:5 父よ、世がつくられる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせてください。
これらの言葉はあきらかにイエスの口を通して語られた、全能な神、御子の言葉であることがわかります。
このようにヨハネは、<人間イエス>と<全能な神、御子の存在>を明確に裂いています。
しかし、その上でつながっている、つながっているものはひとつだと証していることがわかります。
<霊で存在する全能な神、御子>と<その肉体になったイエス>。この二つの存在がそれぞれ別に存在しているけれど、その行いも御心も完全にひとつになって働いていた、ということです。
だからこそ、イエスは「わたしを見たことが、神を見たことだ」と話されたのです。
12:44 私を信じるものはわたしをつかわした神を信じるのである
12:45 わたしを見る者はわたしをつかわされた方を見るのである
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられる
14:24 あなたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である
仲保者としてのイエス
イエスはまた、神と人間との間をつなげる仲保者としての役割を担っていました。
ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくだろう。
ヨハネ14:6 わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
テモテへの第一の手紙2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
罪の無いキリスト・イエスが、全能な神様からもらった命の御言葉を伝えることで、それを聞く人々がイエスを信じ、愛して、御言葉どおりに自分をつくり、罪の道を離れたその時、永遠な命の道に出てくることが出来ると話されました。
根拠なく、ただ神様を信じるからと言って救われるのではなく、キリスト・イエスを通して伝えられた御言葉どおりに完全に自分をつくって人生を生きた時にはじめて、永遠な命を得る、ということです。
三位一体を発見したヨハネ
聖霊の存在
ヨハネは、全能なる神、御子の存在を知らしめましたが、実はさらにもうひとりの神、<聖霊の存在>についても証をしています。
ヨハネ14:16~17を見てみますと、
わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主を送って、いつまでもあなたと共におらせてくださるだろう。それは真理の御霊である。
とあります。ここで注目すべきは、父なる神とは<別の存在>、もうひとりの神を送るとイエスが弟子たちに話していることです。
<父なる神>がいて、<ひとり子なる神、御子>がいて、さらに<もうひとりの神、聖霊>がいる。それは助け主であり、真理の御霊であると話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
ヨハネによる福音書では聖霊を4回も<助け主>と表現しています。一方で、他の福音書では聖霊のことを<助け主>と表現している箇所はどこにもありません。それだけヨハネが深く悟っていたことが表れています。
15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
その助け主である聖霊は、イエスが去った後に現れる、と書いています。
16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
だから、<父なる神>と、イエス様を通して現れていた<ひとり子なる神、御子>と、イエス様が去った後に来られる<助け主、聖霊>の<三位>がそれぞれ存在している、ということをヨハネが証していたということがわかります。
これもまた、天の深い秘密ですね。
マタイ28:19-20 あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、<父と子と聖霊>との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
聖霊をわたしたちに送ってくださると、そして、いつまでも共にしてくださるというのですから、なんと幸せなことでしょうか。
主が愛しておられた者
四つの福音書の中で、ヨハネだけが、父なる神様、助け主である聖霊様、御子なる神、をはっきり裂いて証しています。
こんなに深い天の秘密をなぜ、ヨハネは発見し、悟ることが出来たのでしょうか。
ヨハネは自らを名前を名乗らずに、「主が愛しておられた者」と表現しています。
- 13:23 イエスの愛しておられた者が、み胸近くに席についていた。
- 19:26 イエスは、その母と愛弟子がそばに立っているのをごらんになって、
- 20:2 シモン・ペテロとイエスが愛しておられたもうひとりの弟子のところへ行って
- 21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
- 21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。
イエスがヨハネを愛したのは、ヨハネの方が先にイエスを慕い、愛していたからにほかならないと思われます。そして最後までその愛が変わらず、変質しなかった。
良い時にだけイエスに従ってついていくのではなく、むしろ最も困難な時、苦痛の時にもっと近くにいてイエスを慰め、共にしたのではないでしょうか。
特別な才能があったとか、地位や名誉があったからとか、ではなく、ヨハネは普段からイエスに同行する中で、イエスのことがどんどん好きになり、喜んで、嬉しくていつも近くで共にして、どこにでも一緒について行き、理解できなくても従順し、「こんなこともわからないのか」と叱られながらも、いっぱい質問して、イエスと心情の距離が近かったからこそ、人間としてはありえないほどの深い天の秘密を解くようになったのだと思われます。
「愛」ですべてを解いた、と言っても過言ではないでしょう。
また、とてもポジティブで、自己肯定感もずば抜けて高かったであろうことも想像に難くないですね。
イエスが出会った人々とのエピソード
1)ニコデモ
ヨハネ3章では、パリサイ人のニコデモというユダヤ人の指導者がイエスに質問をします。
彼はイエスに、「あなたは神から来られた教師であることを知っています。神が共にしていないなら、あなたがなさっているしるしは、だれにも出来ません」と話しました。
するとイエスは「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。
するとニコデモは「どうやってもう一度母の胎内にはいって生まれることができますか」と問いかけます。
するとイエスは「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれるものは、肉であり、霊から生まれるものは霊である。」とお答えになります。
禅問答のようにも思えるこの一説も、比喩で語られたイエスの御言葉を正しく解いてこそ、理解できます。
そしてイエスはさらにニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながらこんなこともわからないのか。わたしは自分の知っていることを語り、また自分の見たことを証しているのに、受け入れない。地上のことを語っているのに信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。」と話されます。
そしてさらに、イエスを信じるものが永遠の命を得るためには、モーセが荒野でへびをあげたように人の子もまたあげられなければならない。と、この時点で既に、ご自身のいかれる道をご存じで話をされました。
ニコデモがイエスに、神から来られた教師であることを知っている、と告白したことからはじまり、話の展開がどんどん重苦しく深刻になっていきました。
それは、新しく生まれなければ、神の国に行くことはできない、というイエスの言葉をニコデモが正しく解くことができなかったからです。
この時ニコデモはどのように答えたらイエスから百点をもらえたのでしょか。
「主よ、そのとおりです。永遠に乾かない命の水、霊魂の糧である御言葉を下さり感謝します。わたしはあなたがくださる永遠の命の言葉を信じ、あなたを愛します。御言葉を聞いて新しく生まれ変わります。」
と、このように答えたなら、その後のイエスの言葉の流れもまったく違っていたのではないでしょうか。
この一説を読むだけでも、あまりにも多くの教訓を得ます。
イエスと一対一で対話できることの価値がどれほどなのか、またそういう機会に恵まれた時にどのように対話することができるのか、それは平素自分をつくっておいた分までだ、ということです。
一時が万事とはよく言ったものです。ニコデモはイスラエルの教師でありながらその貴重な機会を逃してしまいました。
2)サマリヤの女
一方でサマリヤの女の人はとても上手くイエスと対話しました。
第4章を見てみますと、イエスがサマリヤのスカルという町に来て、ヤコブの井戸のそばに座っていると、サマリヤの女の人が水をくみにきました。
イエスは女に「水を飲ませてください」と話しかけます。
すると、サマリヤの女は「あなたはユダヤ人でありながらどうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と訊ねます。
ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったので不思議に思ったのでした。
するとイエスは、「水を飲ませてくれと言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」とお答えになります。
そしてさらに、「この水を飲むものは、だれでもまた、かわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と話されました。
すると女はイエスに、
「主よ、その水をわたしに下さい」と話すと、
イエスは「あなたの夫を、ここに連れて来なさい」と言いました。
女が「わたしには夫はありません」と答えると、
イエスは「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである。」と、サマリヤ女の過去の男性遍歴をズバリと言い当ててしまいます。
言い当てられた女はびっくり仰天しながら、「わたしは、あなたを預言者と見ます。それなら伺いたいことがあります。わたしの先祖たちは、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」
イエスは女に、「あなたがたは、この山でもエルサレムでもない所で礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らない者を拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をするものたちが霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る、今きている。神は霊であるから、礼拝をする者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」と、あまりにも重要で核心的な深い御言葉を伝えました。
すると女は、さらに良い質問をします。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちにいっさいのことを知らせて下さるでしょう」
いきなり急所にズバリと踏み込む質問をしました。凄いです。
そしてなんと、イエスご自身がこのようにお答えになりました。
「あなたと話しているこのわたしが、それである」。
名場面中の名場面だと言っても過言ではないと思います。
イエスから深い御言葉を次から次へと引き出したサマリヤ女の知恵と聡明さに驚嘆します。
サマリヤの女はキリスト、メシヤが来ることを切実に待ち望みながら過ごしていたのでしょう。礼拝を正しく捧げたいけれど誰に聞いたらよいのかと悩んでもいました。
男性たちとの交際もいろいろありましたが、満たされず、人生の問題をかかえていた中で、盗人のように現れたイエスに出会いました。
そして千載一遇のチャンスを見事に掴みました。
3)姦淫の現場から連れてこられた女
ヨハネ8章を見てみますと、
イエスがオリブ山で集まってきた人たちに御言葉を伝えられていた時、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女を、イエスのところに連れてきました。
そしてイエスに「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中でこういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と詰問しました。イエスを訴える口実を得るためにそうしました。
するとイエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とお答えになりました。そして身をかがめて、地面に物を書きつづけました。
すると彼らは年寄りからはじめてひとりびとり出て行き、イエスひとりだけになりました。
イエスは女に「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰するものはなかったのか」と訊ねられ、
女は「主よ、だれもございません」と言うと
イエスは、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今度はもう罪を犯さないように」と話されました。
罪の無い者はひとりもいない、ということです。
イエスはそのことをパリサイ人や律法学者たちに知らしめました。だから彼らは何も言えず去っていったのです。
イエスを陥れようとした目論見は失敗しました。同時に姦淫の女の罪も許され、女は罪から解放されました。
救いと裁きをイエスは同時に行なったのです。
罠にはめようとした人々が却って自分のしかけた罠に嵌ったのです。
4) ベテスダの池で癒された人
ヨハネ5章を見てみますと、
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブライ語でベテスダと呼ばれる池がありました。
そこには五つの廊があり、中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた人たちが大ぜいからだを横たえていました。
それは池の水が動いた時にまっさきに入る者は、どんな病気にかかっていてもいやされたからでした。
そこに38年間のあいだ病気に悩んでいる人がいて、イエスはその人が横になっているのを見て「なおりたいのか」と言われました。
その人は「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしが入りかけると、ほかの人が先に降りていくのです」と訴えると、
イエスは「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言葉をかけました。
すると、その人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った、とあります。
イエスはただ、言葉だけをその人に話されました。
手を置いて祈ってあげたわけでもなく、患部をさすってあげたわけでもありません。
あまたいる病人の中で、なぜ、イエスはその人を選ばれたのでしょうか。
イエスはその人が長い間患っていたことをご存じでした。
しかし癒されたその人は、イエスが誰であるのかを知りませんでした。
群衆がその場にいたのでイエスがそっと離れていかれたからだとあります。
その後、イエスは宮でその人に会い「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかも知れないから」と告げます。
彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスだとユダヤ人たちに告げました。
そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをした、と言ってイエスを責めます。
イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と答えました。
これを聞いてユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと計るようになりました。
それは、イエスが安息日を破ったばかりか、自分を神と等しいものとされたからだ、とあります。
イエスの御言葉は続きます。
「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることはすべて、子にお示しになるからである。そしてそれよりもなお大きなわざを、お示しになるだろう。あなたがたがそれを見て不思議に思うためである。すなわち父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるだろう。」と話されました。
イエスは自身に及んでいる身の危険を承知の上でなお、父なる神様の御心に従順し、そのすべてを行っていました。ただ父神様の行うとおりにしている、自分からは何事もすることができない、とご自身のことを証されました。
5)最後の晩餐で弟子たちに語った言葉
イエスが十字架にかかる直前、弟子たちとの最後の晩餐の時にそれぞれ対話をします。
13章では、イエスがひとりひとりの弟子たちの足を洗う様子が描かれています。
ペテロは、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」
イエスは「わたしのしていることが今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになる」、
ペテロは「私の足を決して洗わないでください」と言います。
するとイエスは「あなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係りもなくなる」
ペテロは「では、足だけでなく、手も頭も」洗ってください、とお願いします。
イエスは「すでにからだを洗ったものは、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。しかしみんながそうなのではない」と話されました。
「しかしみんながそうなのではない」という部分は、イエスを裏切るイスカリオテのユダのことを言っていたのです。
また、イエスの愛しておられた者、ヨハネがみ胸近く席について、イエスを裏切る人について「主よ、誰のことですか」と訊ねると
イエスは「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」とヨハネにだけ、誰がイエスを裏切るのかを教えました。
イエスが「あなたがたはわたしの行くところに来ることができない」と話されると、
ペテロは「主よどこにおいでになるのですか」と訊ねます。
「あなたはわたしのいるところに今はついてくることができない。しかし、あとになってからついて来るだろう」と話されます。
ペテロは、「なぜ今ついて行くことができないのですか、あなたのためには命も捨てます」と言うと、
イエスは「わたしのために命を捨てるというのか、鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないというであろう」と話されました。
トマスはイエスに
「主よ、どこへおいでになるか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と言うと
イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし今は父を知っており、またすでに父を見たのである」
と、非常に深い御言葉を話されます。
今度はピリポが「主よ、わたしたちに父を示してください。そうしてくだされば、わたしたちは満足します。」
イエスは「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見たものは父を見たのである。」と話されました。
このように、イエスは愛する弟子たちと最後の時間を過ごしながら、深い天の秘密の御言葉を対話をする中で、あるいは質問に答えながら話されました。
しかし弟子たちにはイエスの言葉のいわんとすることが悟れていませんでした。
イエスは弟子たちが理解できないのだとしても、神様が話される御言葉をすべて話されました。伝えておくべき重要な御言葉だったからです。
このように使徒ヨハネは、イエスがひとりひとりと一対一で非常に深い対話をしている様子を詳しく描写しています。
群衆がいる時にだけ、しるしや奇跡をおこなったのではなく、ひとりひとりと愛を持って接しながら、語られたイエスの姿を描き、その中から生まれた、貴重な経緯と御言葉が後世に受け継がれています。
キリスト・イエスは決して遠い存在なのではなく、むしろ高いところから降りて来て、あなたのとなりにいていつも共にしている、「あなたのイエス」なのだ、ということを伝えたかったのかも知れません。
失った「はじめの愛」を回復させたイエス
1)三度イエスを否定したペテロ
最後の晩餐の時、イエスはペテロに話されました。
「わたしのために命を捨てるというのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというであろう」。
18章を見てみますと、イエスが捕らえられて大祭司の中庭に入られた時、ペテロは外で戸口に立っていました。大祭司の弟子である弟子が、外に出て行って門番に話し、ペテロを内に入れてあげました。
この時、この門番の女がペテロに「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と聞くと、
ペテロは「いや、そうではない」と答えます。
一度目にイエスを否定した場面です。
中庭では、大祭司がイエスに、弟子たちのことや、イエスの教えのことを尋ねました。
イエスは「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが彼らに語ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。」と話すと、
下役のひとりが「大祭司に向かってそのような答えをするのか」と言って平手でイエスを打ちました。
イエスは、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。
下役はイエスを縛ったまま、大祭司カヤパのところに送りました。
この時シモン・ペテロは立って火にあたっていました。すると、人々が彼に「あなたもあの人の弟子のひとりではないか」と聞くと
ペテロはそれを打ち消して、「いや、そうではない」と言います。
これが、二回目にイエスを否定した場面です。
今度は、大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親族の者が、ペテロに「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」と言うと、ペテロはまたそれを打ち消しました。
するとすぐに、鶏が鳴きました。
イエスが最後の晩餐の時に、ペテロに言った言葉がそのとおりになされてしまいました。
そして外に出て、激しく泣いた、とあります。
使徒ヨハネはゲッセマネの祈りの場面を記述していません。
ルカによる福音書では、イエスが弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」。と話された場面があります。
それはおそらく、恐怖から来る罪の誘惑、イエスを否定する誘惑のことをおっしゃっていたのではないでしょうか。
イエスはこの時、苦しみもだえて、汗が血のしたたりのように地におちるほど切実に祈られていました。
しかし、弟子たちはこの時、居眠りをしていたのです。
イエスの運命は変わらないのだとしても、それと同時に弟子たちの身に差し迫る、イエスに対して背信する、という罪の誘惑に陥らないために祈りなさい、とイエスはおっしゃっていたのでしょう。
2)三度愛の告白をさせたイエス
イエスは亡くなられた後、三日目に復活され、弟子たちの前に三度現れました。
三度目に、イエスはテベリヤの海辺でペテロに会います。
イエスが弟子たちと共に朝の食事をすませると、ペテロに
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することはあなたがご存じです」。
イエスは彼に「わたしの羊を養いなさい」と言われて、
またもう一度「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
ペテロは「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、
三度目にまた、「ヨハネの子、シモンよ、わたしを愛するか」と聞かれ
ペテロはイエスが三度も言われたので心をいためてイエスに「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と言いました。
イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
これは、ペテロが三度イエスを否定したことに対して、三度イエスを愛していると告白させることで、ペテロが犯した背信の罪を許すためでした。
ペテロはもっともイエスの近くにいてイエスに仕えた頭弟子でした。他の弟子たちがイエスが誰なのかわからない時も、たったひとり「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と聖霊に導かれて告白し、また、多くの弟子たちがイエスにつまずいてイエスのもとを離れていった時にも「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言葉をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と告白しました。
それなのに、イエスが捕らえられて、鞭打たれる姿を見て、あまりにも怖くなり、その恐怖に耐えきれず、イエスは本当にその方なのか?と一瞬疑ったのかもしれません。だから、三度否定してしまったのでしょう。
ペテロはわたしたちに多くの教訓を与えてくれました。
もしも自分がペテロだったら、どうしていただろうと考えます。
わたしたちは第二のペテロなのかもしれません。
だからこそ、彼からたくさんのことを学んでいきたいと思います。
失ったはじめの愛を、復活されたイエスによって回復させてもらったペテロの活躍は、使徒行伝でお伝えいたします。
まさに、彼は、あたらしく生まれ変わりました。