イエスの系図に込めた、マタイのねらい
マタイとはどういう人物?
マタイは12使徒のひとりで、職業は取税人です。
イエスがカペナウムの収税所の前を通りかかった時にマタイに声をかけ、「わたしについて来なさい」と声をかけると、喜び勇んでイエスに従いました。<マタイ9:9~13>
当時、取税人という職業は忌み嫌われていました。というのも、とりたてた税金をユダヤを支配していたローマに納めていたので、ローマの手先だと思われ、また余分に手数料を取って自分たちの私腹を肥やしていたからです。
マタイは、人々から蔑まされていた自分に声をかけてくれたことがあまりにも嬉しく、職も財産も家も捨ててイエスについていきました。
そして、イエスと弟子たちを招待して盛大な宴会を開きました。
するとパリサイ人たちがイエスに詰問します。
「なぜ、あなたは取税人や、罪びとたちと一緒に食事をするのか」と。
イエスは、「医者が必要なのは健康な人ではなく病人たちだ。わたしが来たのは、自分のことを正しいと思っている人たちのためではなく、罪びとたちを悔い改めさせて、神に立ち返らせるためだ」と話します。これはとても有名なエピソードであり、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記載されています。
マタイはイエスによって罪を許され、イエスの弟子として人生を新しく生きる決意をしました。やがて、新約聖書の巻頭をかざる福音書の記者になるまでに成長しました。
マタイ福音書は紀元80~90年頃にかけて、ユダヤ教からキリスト教への改宗者に向けて著され、イエスこそが旧約聖書で預言されているメシヤであることを証することを主目的に書かれました。
そのため、旧約聖書からの引用が多く含まれ、イエスによる御言葉もまんべんなく記載されていることから、初代教会の時代から権威ある書物として重要視されています。
イエスがダビデの子孫であることを強調したマタイの意図
マタイはなぜ、冒頭にアブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図を記録したのでしょうか?それは、ユダヤ教の人々が、メシヤはダビデの子孫から来る、ということを強く信じていたからです。
だからこそマタイは他の何よりも先に、あなたがたが異端視している、ひどく迫害して殺してしまったイエスこそが、旧約の預言を成した、ダビデの子、キリスト、救い主メシヤなのだと言いたかったのです。
そんなことを知らない我々からしたら、この系図はとてもたいくつで眠くなってしまいそうだし、この系図を見るだけで、先を読み進めるのを断念してしまいそうですよね。
しかしマタイは、他の何よりも、イエスを不信したユダヤ教の人たちにイエスがダビデの子孫だということを証明したかったし、のっけからKOパンチを与えて、彼らを改心させたかったのです。それほどまでに当時のユダヤ教の人びとは血統を重要視していました。
1:17を見てみますと、
アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である、とあります。
なぜ、「14」という数字を三回も繰り返したのかと言えば、ヘブライ語の特徴として、文字を数字に変換し、その数字を通して互いに暗号のようにやりとりをする習慣があり、「14」という数字はダビデを表していたからなのです。
「ダビデ」というヘブライ語を数字に変換すると「14」になるので、「14」と言えば、ダビデだという暗黙の了解がありました。
実際のところは、この系図には数人の王たちが省かれています。しかしマタイはそんなことよりも、ダビデの子孫としてのイエスを強調したい、三回繰り返したのは「3」という数字が完全数だからです。
冒頭から現れたマタイの強い執念、知ってみると決死の覚悟が読み取れますし、何よりもイエスへの強い信仰心と深い愛が感じられて圧倒されながらも同時に、感嘆します。この系図にそんな秘密があったなんて、驚きです。
系図に記された4人の女たち
この系図のもうひとつの特徴に、女性たちが記録されていることが挙げられます。
男尊女卑社会の中で、系図というものは、基本的に男性だけで書かれるのが常識とされていました。にもかかわらず、マリヤ以外に4人もの女性の名前が入るのは、相当な違和感と拒否反応を与えてしまう恐れがあります。
それも、記載されている女性たちが皆、一筋縄ではいかない人たちなのです。
1:3 ユダはタマルによるパレスとザラの父
ユダと関係を持ったタマルはユダとは嫁舅の関係。いわゆる不倫関係です。自分の夫の父親と関係を持って子供を産んだことを隠すどころか堂々と記載しています。
1:5 サルモンはラハブによるボアズの父
ラハブの職業は娼婦でした。娼婦であった人がメシヤの系図に組み込まれています。
1:5 ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父
ルツはモアブ族の異邦人であり、やもめ女でした。ユダヤ人にとっては異邦人であることが罪だったし、ましてややもめ女は当時とても蔑まれていました。しかし、そういうルツも系図に記載されています。
1:6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
ウリヤの妻、バテシバは、ダビデの不倫相手でした。自分の部下の奥さんと関係をもって産まれたのが、ソロモンです。
あっけにとられてしまいそうになりますが、わざわざ記載しなくてもよいはずのことを、なぜ、あえてあからさまに表したのかとても気になりますよね。
いくつか理由があるかと思いますが、マタイがいちばん言いたかったのは、あなたたちがひどく蔑視し、罪びと扱いをしている女性たちも皆、悔い改めて、清められて、浄化されたら、イエスの血統にまで入るようになるのだと、
この事実を突きつけることで、それくらい罪を悔い改めることが大きいし、神に喜ばれることだと言いたかったのではないかと思います。
また、イエスが男尊女卑を廃して、女性たちと男性同様に接していたのを近くで見ていたので、マタイもイエスを見習ったのかもしれません。
マタイは渾身の力を込めて常識破りをものともせず、このような系図を書くことで、イエスの福音はもはや万民のものであり、イエスの福音を聞いて、信じて悔い改めれば、罪びとも救われて天国に行くことができると、当時の人々のみならず、後世の人たちにも向けて、希望と喜びを与えたかったのではないでしょうか。
旧約聖書の預言を成すために来られたイエス
旧約聖書に散りばめられたメシヤに関する預言
マタイ福音書は、直接、間接的に旧約聖書の本文が数多く引用されています。
そうすることによって、イエスが旧約聖書の預言を成就した人物であることを、ユダヤ教の人たちに知らしめたかったのです。
マタイ1:21~22を見てみますと、
マリヤの婚約者であるヨセフが見た夢の中に御使いが現れ、
マリヤは男の子を産むだろう、その名をイエスと名付けなさい、彼は自分の民たちをもろもろの罪から救う者となる。と書いてあり、このことが起こったのは、
主なる神が預言者イザヤによって言われたことが成就するためである。とあります。
実際にイザヤ書7:14には
それゆえ、主はみずからのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
と書いてあります。
また、マタイ2:7~18を見てみますと、
生まれたばかりの幼子イエスを殺そうとしていたヘロデ王のたくらみを夢のみ告げで知り、父ヨセフがイエスと母マリヤを連れてエジプトに逃げ、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていたのですが、
これも、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言う預言が成就したことだと書かれています。
さらに、ヘロデは東方の博士たちがイエスの居場所を教えずに帰ってしまったことに立腹し、イエスの生まれたベツレヘムとその附近の二歳以下の男の子をことごとく殺してしまいます。
この出来事も、既に預言者エレミヤによって預言されていました。
エレミヤ書31:15
主はこう仰せられる、「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞こえる、ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」。
ラケルとは、旧約聖書の創世記に登場するヨセフを産んだ母の名で、イスラエルの母全体を呼ぶときに、象徴としてラケルの名前を使っていました。
これらの事件を、ただ単にこのような災いが起きたという記録に留めず、旧約の預言がこのように成されたということをマタイは記録しました。
もうひとつ旧約の預言を成した出来事を見てみましょう。
マタイ4:12~14を見てみますと、
イエスはバプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤへ向かいました。そして生まれ故郷のナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にあるカペナウムに行って住みました。
これも預言者イザヤによって既に預言されていたことが成就したと書いています。
イザヤ書9:1
しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
このようにして、当初はユダヤ教の人々に向けて書かれたマタイ福音書でしたが、イエスが異邦の地に福音の足跡を残すことで、やがては全世界に向けてこの福音がのべ伝えられるようになること、
それによって異邦の人々も皆、イエスを信じれば救われるようになる、ということを既に旧約聖書の時代からイザヤが預言していたし、それを成したのが他ならぬイエスであるとマタイは強調したのです。
これ以外にもマタイは数多くの旧約の預言を引用し、その数は100か所以上にものぼります。
エレミヤの預言も、イザヤの預言もことごとく成したのがイエスなのだ、ということを示すことで、だからこそイエスこそが、メシヤであるという動かし難い証拠を突きつけたかったのだと思います。
マタイのただならぬ覚悟と執念を見習いたいです。
いちばん大きな問題はイエスの十字架だった
しかし、当時の人々にとって、イエスを信じる上でいちばんネックになる問題はイエスが十字架にかけられ処刑されたことでした。
神の子だというのにどうして人間の手によって、いちばん重い極刑の十字架にかけられたのだろうか、どう考えても納得できなかったのです。
メシヤなのに?本当は何か罪があったのではないか?火が無いところに煙は立たないというしな?などと、イエスのことをメシヤとして信じる上で、十字架の死はあまりも妨げになる問題でした。
だからあえて福音書記者たちは、イエスが十字架にかけられる前後の一週間の出来事に一番の比重を置いて、福音書を書いたのです。
マタイ福音書は、21章から28章までをイエスが十字架にかかる前一週間の出来事と復活について記録し、全体の四分の一を占めています。
マルコ福音書は全体の三分の一、ルカ福音書は全体の五分の一、ヨハネ福音書に至っては、なんと全体の二分の一、半分の分量をイエスの十字架の経緯について著しています。
当時の人々は、イエスの教えが好きだったし、また人々の病を癒す力にも感銘を受けていたから信じたかったけれども、イエスの十字架の死が衝撃すぎて受け入れることが困難な状況でした。
4人の福音書記者たちは、イエスの十字架によって我々が救われたのだという証を徹底的に書くことで、人々の認識を変えようと努力し挑戦しました。
人々がイエスをメシヤとして信じることができるようにするためには、十字架の死を理解し消化し乗り越えられるようにしてあげる必要がありました。
それほどまでに、イエスの十字架の出来事は当時の人々にとって、今を生きる我々には想像できないほどの障害だったのです。
イエスが伝えた5つの核心の御言葉
① 人生をどう生きるべきか
マタイ5章から7章では、救われて天国に行くためには、どのように生きるべきなのかということについて、旧約聖書の律法と比較しながら、イエスが福音を伝えている様子が書かれています。
例えば、5:21~22でイエスは
殺すな、殺す者は裁判を受けなければならない。とまずは旧約の律法を伝え、そのあとで、しかし私は、兄弟に対して怒る者は裁判を受ける、愚か者と言う者、ばか者という者は地獄の火に投げ込まれるだろうと話します。
また、5:27~28では
姦淫するなと、旧約の律法を先に伝え、その上で誰でも情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫したのであると話しました。
このように、モーセの律法と比較しながら、心を清くしなければならない、考えを清潔にしなさい、きれいにしなさいと話し、
イエスが来たことで御言葉の次元が一段上がったことを知らせ、時代の転換をはかろうとしました。
しかし、比較される立場にある人々にとっては、気持ちのいいものではありません。
だからイエスは「誤解しないで欲しい。私が来たのは律法を廃するためではなく、成就するためだ」と話します。<マタイ5:17>
イエスは普段から自身がどのように考え、どのように人々に対して接しているのか、ありのままの姿を見せることで、この教え、この御言葉がすなわちイエス自身であることを示しました。
5:48でイエスは、天の父である神が完全であるようにあなたたちも完全なものとなりなさいと話しています。
これは、新しい時代が来たから次元をあげよう、今いるところから抜け出して私に学びなさい、そうしてこそ完全になれると言いたかったのではないでしょうか。
② 自らの姿を見せながら宣教方法を伝授
8章9章では、実際に御言葉を伝えながら同時に病気の人々を癒すイエスの姿が描かれています。数々のしるしと奇跡を行い、弟子たちには、私の御言葉とおりにおこなえば、あなたたちにも同じことが出来ると話しました。
10章では、12使徒を選び、彼らに穢れた霊を追い出し、病気やわずらいを癒す権威を与えて
具体的な宣教方法を伝授します。
病人を癒し、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出しなさい、ただで受けたのだからただで与えなさいと話します。
また、わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものだから、へびのように賢く、はとのように素直でいなさいと話され、
イエスの名のゆえにすべての人に憎まれるだろうけれど、最後まで耐え忍びなさい、そうすれば救われると話しました。
さらにイエスは、自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない、自分の命を得ているものはそれを失い、わたしのために自分の命を失っているものは、それを得るだろうと話し、
宣教活動をするにあたっての覚悟と心構えのための深い御言葉を12使徒に話されました。
イエスは語った言葉のすべてを自らが行なっていたからこそ、弟子たちに伝えることができたのです。
まずはご自身が行なってみせ、その姿を弟子たちの目に焼き付けてから、痒い所に手が届くくらいにまで詳しく宣教の方法を教えました。
イエスのひと言ひと言が重くずしりと心に響きます。
人ひとりを救うことは命がけなのだということがわかります。
③ 天国についての御言葉が宣布された経緯
11章では、ヘロデ王のスキャンダルを訴えたことで獄にとらわれたバプテスマのヨハネが自分の弟子をつかわして、イエスに「きたるべき方はあなたなのですか、それとも他にだれかを待つべきでしょうか」と訊ねました。
そこでイエスは、盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞いていると伝えなさいと話したあとで、
バプテスマのヨハネこそが旧約聖書で預言された、きたるべきエリヤであることを群衆に伝えます。
バプテスマのヨハネは、イエスが誰なのか悟れず、また自分の使命も悟れませんでした。
そのことによって、歴史の運命は傾き、天国が襲われていると話します。
これはつまり、バプテスマのヨハネが自分の使命を果たさなかったから、歴史の局面が大きく傾いた、天国が襲われるというのはすなわち、イエスが迫害を受けイエスを襲う者たちによって奪われる、ということを暗示した言葉でした。<マタイ11:11~14>
はたして、12章からはイエスに対する迫害が激しくなり、イエスの一挙手一投足に対してパリサイ人たちが、揚げ足をとり、ケチをつけはじめます。それでもイエスは人々を癒し、福音を伝え続けます。
パリサイ人たちがしるしを見せてほしいと言うと、イエスは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるだろうとご自身の運命について暗示しながら、
ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたが、ヨナに勝るものがここにいる、ソロモンに勝るものがここにいると御言葉を伝えます。
イエスに対する迫害が激しくなるにつれて、イエスについて来ていた人々も離れていきます。
この時からイエスは、群衆に向けてはたとえ、つまり比喩を用いて御言葉を伝えるようになります。
それは彼らが見てもみえず、聞いても聞かず、悟らないからだと、そしてこのようにしてイザヤの預言が彼らの上に成就したことを話しました。<マタイ13:11~15>
また、天国についての御言葉も伝えはじめます。
天国は一粒のからし種のようなものである、畑にまくとどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥が来てその枝に宿るほどに大きくなると言いました。<マタイ13:31~32>
これは、私イエスの御言葉を聞いて成長しなさい、そして自分自身をつくりなさい、遅々として進まずともあきらめるな、やがてはからし種の木のように雄大になる、
それと同じくこのイエスの福音の歴史も今はからし種のように小さくみすぼらしくても、あとでは信じられないほど大きく雄大に輝くだろう、だから私から離れないで、私に続けて学びなさいと言いたかったのではないでしょうか。
イエスの福音こそが天国へ至る道なのだと、天国の門を開く鍵なのだと伝えていたのです。
また、16章では五つのパンを五千人に分けた奇跡について、弟子たちにだけその秘密を打ち明けます。
わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか、ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい、と伝え、
このときようやく弟子たちは、パン種とはパリサイ人とサドカイ人たちの教えであることを悟ります。<マタイ16:6~12>
それと同じく、五つのパンを食べて五千人が満腹したというのはイエスの御言葉を聞いて、彼らの心が満足した、満たされたということです。
イエスの御言葉それ自体が天国であり、その御言葉そのままを行ったイエスこそが天国なのだと話していたのです。
④ 弟子たちへの遺言のような御言葉
ペテロの告白
マタイ16:13~17を見てみますと
イエスが弟子たちに、人々はわたしのことを誰だと言っているのか、と尋ねます。
弟子たちはバプテスマのヨハネだという人たちもいるし、エリヤだという人たちもいるし、ほかの預言者の一人だという人々もいますと答えました。
そこでイエスは、ではあなたたちは私を誰だと思うのかとまた尋ねます。
すると、ペテロだけが、はっきりと「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。
イエスはペテロのこの告白を聞いてあまりにも喜びました。
そしてペテロにあなたにこのことをあらわしたのは、血肉ではなく、天におられるわたしの父だと話しました。この時からペテロは本名のシモンではなく、岩という意味のペテロという名前をもらいます。岩のように盤石な信仰者だとイエスに認められ、あなたに天国の鍵を授けようといい、その時からイエスの頭弟子となりました。
当時はイエスが誰なのか、弟子たちでもよくわからなかったのです。信じたり、疑ったりしているような状態でした。
この告白は言葉だけで無理やりにはできないものでした。だからこそ貴重であり、また当時はイエスがキリストであることを誰にも言ってはいけない、というくらい危険な状況でした。
まさに、命がけの告白だったのです。
マタイはペテロのように、皆がイエスのことを悟ってほしい、決定的な時に、ペテロのような告白ができるような信仰者になって欲しいという切なる願いを持って、この福音書を書きました。
ペテロと魚
17章では、イエスの一行がカペナウムに滞在していた時、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て、あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか、と尋ねます。それを戸口で聞いていたイエスは、ペテロに質問します。
この世の王たちは税や貢をだれからとるのか、自分の子からか、それとも他の人たちからかと。ペテロが他の人たちからですと答えると、イエスはそれなら子は納めなくてもよいわけである。
しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、釣り針をたれなさい。そして最初につれた魚をとってその口にくわえている銀貨一枚をあなたとわたしのために納めなさい、と話しました。<マタイ17:24~27>
父なる神の子の立場で来られたイエスはエルサレム聖殿の管理費のような納入金を、本来は納めなくても良い立場だけれど、そんなことを話したらまた騒動になるだけだから、納めることにしようと言いました。
しかし経済的にもひっ迫している状況だったので、あなたがかつて漁師であった時のように、海のように広い世の中に出ていって、魚に釣り針をたらして魚を釣るように、
今ではあなたは人間をとる漁師になったから、人間にとっての釣り針、すなわち私の福音を伝えなさい。そうすれば、福音を聞いた人たちが、感動して謝礼をしてくれるだろう。そのお金で宮の納入金を支払いなさい。と話したのでした。
イエスはこのようにして、ペテロに比喩をつかって話されました。
この頃既にイエスはご自身の行く道を知っていたので、私がいなくなってからも、あなたたちが生きていくための糧をそのようにして得ていきなさいと、遺言のような御言葉を話されたのでした。
天国は地上からはじまる
18:18では天国はまず地上からなされるという御言葉を話されています。
あなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる、またあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天の父なる神がかなえて下さる、二人または三人がイエスの名によって集まっているところには、わたしがその中にいると伝えました。
となり人を愛せよ
イエスが伝えた最高の教えは、
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい、これがいちばん大切な第一のいましめであり、第二も同様に、自分を愛するようにあなたのとなり人を愛しなさい。<マタイ22:37~39>
ここでいうとなり人とはまさに、イエス自身のことを言っていたのです。
父なる神を愛するように、自分を愛しなさい。
そしてあなたのとなりにいて、いつも共にしている私イエスを変わらない心で愛しなさいと。
「わたしを」、と言わずに「となり人」という言葉に込められた深い心情に触れ、心がジンとなります。
真実な愛なくしては天国は成されないと話された貴重な遺言のような御言葉です。
⑤ 終末の預言の御言葉
23章では、心も行いも腐敗した宗教指導者たちを御言葉で裁きました。
この章は最初から最後まで厳しい裁きの御言葉だけで構成されています。
めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった。見よ、おまえたちは捨てられてしまう。
わたしは言っておく、「主の御名によってきたるものに祝福あれ」とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう。<マタイ23:37~39>
という御言葉で締めくくられています。震撼となります。
24章では
弟子たちに向けて、将来に起こることをあらかじめ話されました。
24:15以下を見てみますと、
預言者ダニエルによって荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのをみたならば、その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような、大患難が起こるだろうと話されました。
その時には、にせキリストたちや、にせ預言者が起って、選民たちをも惑わそうとするだろう、だから気をつけなさい、そしてその時に人の子が現れると話されました。
これは終末に起こる大患難とイエスの再臨の預言の御言葉です。
24:29以下を見てみますと、
その時に起こるかん難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるだろう。またその時人の子のしるしが天に現れるであろう。
人の子が天の雲に乗って来る、彼は大いなるラッパの音と共に御使いたちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民たちを呼び集めるだろう。
と預言しました。
だから目を覚ましていなさい。用意していなさい。とイエスは言いました。
人の子のあらわれるのもノアの洪水の時のように世が乱れている、そしていっさいのものをさらっていくときまで彼らは気がつかない、思いがけない時に人の子は来るから、いつその時が来てもいいように、思慮深く忠実でいなさいとおっしゃいました。
25章では、イエスの再臨を迎えるために、どのように備えて待つべきなのかを教えてくださっています。
31節以下を見てみますと、
わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである。
普段から人々にどのように接しているのか、その人の普段の姿を見るとおっしゃいました。
かくれたところで行なっていることをすべてご覧になり、人々を右と左に分けると話されました。普段の姿が清く清潔で、慈愛に満ちている人、神と自分とキリストを心から愛する人をより分けて天国に連れて行くとおっしゃたのです。
地位や名誉や財産などではなく、素朴で清らかで心が美しい人、その心ひとつを持って、神とキリストを心から真実に信じ愛する人を探すと伝えられました。
一見簡単そうですが、おこなってみるとかなり難しいです。繰り返して辛抱強く、挑戦です。
イエス・キリストが行かれた十字架の道
イエスを裏切ったイスカリオテのユダ
マタイ26:14以下をみてみますと
12弟子のうちのひとり、イスカリオテのユダが祭司長のところへ行き、イエス先生をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますかと聞きます。すると彼らは銀貨30枚をユダに支払いました。
同じ日の夕方、イエスは12弟子と一緒に最後の食事の席につかれ、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と話します。
そして、たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう。と話すと、
イスカリオテのユダは、「先生、まさかわたしではないでしょう」と聞き、イエスは、「いや、あなただ」と答えます。
最後の晩餐
それからイエスは聖餐のための晩餐式をおこないます。
パンを取り、祝福してこれをさき、「とって食べよ、これはわたしのからだである。」
また、杯を取り、感謝して彼らに与え、「この杯から飲め、これは罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。わたしが父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。と話されました。<26:26~29>
これは、イエスのからだと流される血の代価によって、あなたたちと契約を交わした、あなたたちを罪から救った、あなたたちをわたしのものにした、同時にあなたたちもわたしイエスと一体になった。
わたしの血の代価でなければ、もはやなんびとも救うことができないからだ、という意味が込められていました。
ゲッセマネの祈り
26:36以下では、イエスがペテロとゼベダイの子ふたりを連れてゲツセマネというところへ行かれ、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」。と話され、すこし離れたところで祈られます。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。と祈られます。
このように切実で深刻な祈りをしている時に、弟子たちは居眠りをしていました。
「あなたがたは、ひと時もわたしと一緒に目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」
と話されたあと、二度目の祈りをされます。
「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」
しかしまたも弟子たちは眠っていたのです。
今度は起こさずに、三度目に同じ言葉でまた、祈られました。
イエスが置かれていた状況を弟子たちは理解できていませんでした。
もう会えなくなるとわかっていたなら、居眠りしたでしょうか。
三度目の祈りを終えられた後も、弟子たちは眠っていました。
イエスが祭司長と長老たちに捕らえられた時になってはじめて、ことの重大さに気づき、
そしてあまりにも怖くなり、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。
イエスが誘惑に陥らないように祈っていなさいと言ったのは、まさにこのことで、イエスを見捨てて逃げるという罪の誘惑のことでした。
ゲッセマネの祈りでの一連の出来事がわが身のように感じられ、身が引き締まります。
もしも自分が弟子たちの立場だったらと、考えてしまいます。
しかしイエスはそうなることもあらかじめご存じでした。
その時イエスは言われた、今夜あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。「わたしは羊飼いを打つ。そして羊の群れは散らされるであろう」と書いてあるとおりであると。<26:31>
ペテロはこの時、イエスとともに死ななければならないとしてもつまずきません。と言いますが、
イエスは、にわとりが鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろうと言い、そのとおりになってしまいました。ペテロは激しく泣きました。
イエス・キリスト最後の言葉
十字架につけられたイエスが息をひきとられる直前に言われた言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
十字架の道が神の御心だとしても、イエスにとっては、本意ではなく、無念だったのではないでしょうか。
まだまだ若くて、肉体をもってやりたいこともあったし、たくさんの人々を救いたかったし、何より愛する弟子たちとの別れがあまりにもつらかったからこそ、最後の最後に、人間イエスの本心が吐露されたのではないかと思います。
そして、ゲッセマネの祈りの時には、悲しみのあまりに死ぬほどだと話され、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださいと切実に祈られたのではないかと思います。
彼らを救う道は、この道しかないのか、と何度も何度も父なる神様に訊ねられたのではないでしょうか。
復活したイエスの最後の御言葉
イエスが息をひきとられて墓に埋葬されてされたあと、三日たってから弟子たちに姿を現します。そして弟子たちに最後の御言葉を話されました。
「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、かれらにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と話されてから、
天に昇られました。
イエスの御言葉を聞いた弟子たちは、その時から以降、目覚ましい活躍をします。
その次第はまた、使徒行伝でお伝えしますね。