ローマ人への手紙

パウロ書簡

「神様の義」を提言した使徒パウロの書簡

1)ローマ人への手紙とは

使徒パウロがコリントの港町に滞在していた時に、ローマに居住している信徒たちに向けて書かれた書簡です。

パウロがローマを訪問する直前に書かれたこの手紙は、いくつかの明確な目的をもって西暦57~58年頃に書かれたとされています。

手紙というよりはむしろ論文に近い形式で書かれていて、キリスト教信仰者に向けた基本的な教理が体系的にまとめられています。

当時のローマにはまだ、教会と言えるほどの立派な集会所がなく、個人の家に集まって信仰生活を送っていたようです。

イエスが昇天した後、イエスの頭弟子の使徒ペテロがペンテコステ(五旬節)の日に聖霊を受けて、世紀の大説教を行った日、ペテロの説教を聞いて3000人が改宗しました。

その時ちょうどローマから来ていたユダヤ人や、異邦人のローマ人も、ペテロのこの説教を聞いて改宗したと言われています。

この書簡が書かれた時点でパウロは既に25年間もの間、宣教のための伝道旅行を行い、地中海地方の宣教はスペインを残し、多大な成果を得て終えているという快挙を成し遂げていました。

彼は文字通り「走りっぱなしの状態」でした。

当時ローマに住んでいたキリスト教信者には、パリサイ派からのユダヤ人改宗者と、異邦人の信仰者が混在していました。

西暦49年にクラウディウス帝がユダヤ人をローマから追放したことによって、いったんは異邦人出身のクリスチャンが主導権を握ります。

しかし、クラウディウス帝が死去し、ユダヤ人がローマに戻ってくると、キリスト教信者の間でユダヤ教の律法の遵守をめぐって、ユダヤ人の改宗者と異邦人出身のクリスチャンとの間で激しい争論が起きている状態でした。

そこでパウロは、この問題を解くために書簡をしたためたのです。

またほかにもいくつか目的があり、ローマ訪問の後、行くつもりだったスペイン宣教のための協力を仰ぎたいことや、小アジアで集めた献金を無事にエルサレムに届けるための祈りをお願いしたいこと、そして何よりも自身の神学論を体系的にまとめあげたい、などのためにこの書簡を著しました。

パウロはもともと熱心なパリサイ派の教師であったため、書簡の論調は多分にラビ(教師)的、パリサイ人的であると言われており、かなり難解な表現が多用されているのもそのためであると思われます。

このローマ人への手紙は後に、マルティン・ルターに多大な影響を与えており、ルターは1515~1516年にかけて「95か条の論題」を著し、これがのちの宗教改革を行うためのきっかけになりました。

2)わかって信じなさい

パウロは当時のパリサイ派からの改宗者に向けてこのように述べています。

<10:2~4>わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストはすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。

彼らの熱心さは認めるが、ただむやみに信じるのではなく全能者神様のことをちゃんとわかって信じて欲しい、そうしてこそ真の救いを得られると言いました。

あなたたちが信じている神様とはどんな方なのか、それを知るためには、キリストイエスが伝えた御言葉をよく聞きなさい

熱心に義を立ててはいるが、よくわからずに神様の御心とは違うかたちでおこなっている。それではだめだ。神様が受け取ってくださらないだろう、と言いました。

<10:17>したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

このような内容の話をパウロはローマ人への手紙全般にわたって伝えています

なぜ、神様のことをよくわかって信じなさいと繰り返し強調したのかと言うと、ローマに住む信徒たちには、ユダヤ教からの改宗者と異邦人クリスチャンたちがいて、意見の衝突が激しかったからです。

それに対してパウロは「あなたたちがそんなにも激しく争っているのは、神様のことを正しく知らないからだ。正しく知ったならばそのような問題は起こらない。救いについて、神様についてまずは、キリストイエスの御言葉をしっかり学んでみなさい」と繰り返して話し彼らを諭しました。

1:15~17>を見てみますと、

そこで、わたしの切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

使徒パウロは争いの耐えないローマの信徒たちに、自身がキリストの福音を伝えることで、主イエスの御言葉を正しく学び、和睦を成して欲しかったのです。

そのためには、知っているつもりになっているパリサイ派の人々に、神様がどんな方なのか神様の義とは何なのか神様の御力はどのようにしてあらわされるのか私の伝えるキリストの御言葉を聞いてみなさい。そうしてこそ、なぜ自分たちに救いが必要なのかを知ることができると伝えました。

だからあえてパリサイ派からの改宗者にとって親しみが湧くような論調でこの手紙を書いたのだと思われます。

「神様の力」とは何か

不可能が無い「神の力」とはなんでしょうか?

全知全能で不可能が無い神様の力がどのように現わされるのか、とても気になりますよね。

神様は全知全能な分だけ、我々人間に対して、心と思いと命を尽くしておこなってくださいます

信じますか?

しかし、いかに全知全能な神様だとしても、そのおこなわれたことが、我々と無関係であったとしたら意味がありません

神様の御力と神様の義は、同時にあらわされます

<8:28>を見てみますと、

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

とあります。

これはつまり、私たちがどういう状況、環境の中にいても、神様はそのすべてを通して、結局はそれがすべて有益になるように働きかけてくださる、ということです。

これが、ローマ人への手紙のひとつの大きな主題であり、核心でもあります。

どんな絶望的な状況の中でも、不可能な状況の中でも、神様は人間には思いつかないような不思議なかたちや方法で結局は有益になるようにおこなってくださる、ということなのです。

ただし、前提条件があります。

すべての人がそれを享受できるのではなく、神様を愛する人が、神様の義、神様の御力を体験できる、ということなのです。

では神様を愛する人、とはどういう人でしょうか?

神様のことを正しくわかっている人、神様を知っている人、わかって信じている人のことをいいます。

そのような人々に神様の義と御力があらわされる、ということなのです。

もちろん、神様は基本的にすべての人を愛されるので、すべての人たちに働きかけてくださいます

が、神様を愛していなければその御力を受けていても感じられない、体験できない、享受できない、ということなのです。

誰が全知全能な神様の御力を存分に体験出来るのか?

ただ、神様を愛している人だけがその御力を存分に味わえる、というわけです。

使徒パウロが一番伝えたかったことは、

あなたがたも神様の御力をリアルに体験したいのではないですか?享受したいですよね?

それならば、まずは神様がどんな方なのか正しく知ってください

漠然とただむやみに信じていてもだめです。

神様のことを一番良く知っている方は、キリストです。神様の息子として来られたからそうです。

「これからわたしが、キリストイエスの御言葉をひとつひとつ詳しくお伝えしますから、よく聴いて、神様について正しく学んでください。

神様についてまずは正しく知って、それから信じてください。そうしてこそおのずと問題が解かれていくでしよう。

なによりも神様ご自身があなた方にそのような信仰者になって欲しいと願っておられるのです。」

と伝えたかったのだと思います。

これは、現代を生きる私たちにも同じことが言えますよね。

神様を愛するためには、神様を知るためには、まずはキリストの御言葉を学ばなくてはなりません。

知ってわかって信じてこそ、全知全能な神様の御力を享受できます。

挑戦しましょう。

神様を信じるとは、どういうことなのか?

1)信仰の模範者、アブラハム

使徒パウロは神様を正しく信じる信仰者として、創世記のアブラハムを紹介しています。

<4:3>アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた。

とあります。それでは、アブラハムはどのように神様を信じたのでしょうか

<4:19>すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱まらなかった。

これは、神様がアブラハムと約束した内容ですが、創世記で神様は年老いたアブラハムと不妊の妻のサラとの間に男の子を授けようといいました。

これはとうてい不可能な状況の中でおっしゃった神様の約束の言葉でしたが、アブラハムはそれを信じ、実際に一年後に息子イサクが生まれたのです。

また、パウロは、アブラハムの割礼についても言及しています。

<4:9~10>を見てみますと、

「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。

パウロは、アブラハムの事例を挙げながら、神様がアブラハムを義と認めたのは、割礼をしたからではない。彼の信仰によって義とされたのである。

当時は、ローマの信徒たちだけではなく、ユダヤ人出身のクリスチャンと異邦人出身のクリスチャンの間でいちばん論争になっていたのは「割礼の問題」でした。

そこで彼は、アブラハムが神様を信じたことによって義とされたのが先で、割礼を受けたのはその後数十年もたってからなのだと説明したのです。

<4:11>そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、

<2:28>外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。

<2:29>かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人々からではなく、神から来るのである。

このようにパウロは、アブラハムのように、到底神様のおっしゃることが信じられないような状況の中でも信じる信仰こそが、真の信仰者と言えるのであって、割礼をするとかしないとかの外見上の問題は関係ない、

それよりは、心が割礼を受けたかのように身を慎んで清く生きることの方がはるかに大切だ、と教えました。

2)神話的な神々を信じていたローマの人々

当時異邦人の間では、ギリシャ神話ローマ神話が盛んで、ローマのクリスチャンたちもその影響を多分に受けていました。

神話の世界の神々たちは、全知全能な神様とは全く違い、ひじょうに人間的です。

日本も文化的に八百万の神々や神道の影響を受けているから、なんとなく理解ができると思います。

神話の世界の神々たちは、人間のように嫉妬、ねたみ、憤りをあらわにしますし、罪も犯します。ただ、その存在が霊である、というだけでその実体は全能者神様とは似ても似つかない存在です。

にもかかわらず、当時のローマ人クリスチャンはその違いがよくわからずにいました

だから、全知全能な神様のことも、神話の神々たちのように見て、何か問題があれば、神様が失敗をした、神様が判断ミスをした、そもそも神様の計画がまちがっていたのだ、だから問題ばかり起こるのだ、という自分勝手な判断を下していました。

それに対してパウロは激怒し、それを正しました。

「そうではない。そのような神様ではない。全知全能な神様はすべてを治められ、間違いなく完全な神様だ」と強調しました。

<9:14>では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。

<9:20>ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい何者なのか。造られた者が造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。

<9:21>陶器をつくる者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。

使徒パウロは幼い信仰者たちに、全知全能な神様と神話の神々たちとの決定的な違いについて一から教え教育しなければならなかったのです。

罪の問題

1)なぜ救われなければならないのか

神様を信じる上においての疑問のひとつに、そもそもなぜ我々人間は救われなければならないのか、ということがあります。

聖書的に見た時、すべての人間には罪があります。しかし私たちには罪についての認識がありません。

善良に生きていたらそれで良いのではないか、そのように思われるかも知れません。

聖書の上では、人間に、あるいは自分に罪があるかどうかを決めるのはわたしたちではない、ということなのです。

つまり、神様の視点から人間を見た時には、すべての人類に罪がある、ということなのです。

それではいったい、どのような罪があるというのでしょうか?

それは、神様と無関係に生きている「罪」

つまり、神様と関係が切れてしまった罪がある、ということなのです。

そう言われても、まだ釈然としないし、実感も湧かないですよね。

いやー、急にそんなこと言われても困りますよ、って思いませんか?

<5:12>を見てみますと、

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

とあります。この、ひとりの人というのは、創世記のアダムのことをいいます。

神様はひとりひとりのこともご覧になりますが、根本的には人類の代表をお選びになり、その人物をとおして働かれます

だからその代表が罪を犯したら、すべての人々も罪の中に閉じ込められてしまうのです。

例えば、オリンピックの代表選手が金メダルを取ったら、その国の国旗を一番高く揚げて表彰しますよね。反対に、負けたらその国全体が負けたかのように悔しがります。

それくらいに代表に選ばれた人が大きいし、責任が重い、ということなのです。

オリンピックの代表選手がそのように感じられるのであれば、ましては神様が選ばれた人類の代表はどうでしょうか?

人類で最初に代表として神様が選んだのがアダムでした。

この時アダムは人類の先祖ではなく、信仰の先祖として立てられました。

アダム以前にも人類は既に存在していました。しかしまだ神様と通じ合えるほどには成長していなかったので、長い歳月を待ってようやく一人の人物が立てられるようになり、それがアダムだったのです。

しかし、最初の代表人物アダムは、神様の御言葉を守らず、罪を犯したのです。

神様が「善悪を知る木からとって食べるな」、とたったひとつの戒めをお与えになったのですが、その御言葉を守らずに、エバから与えられて食べてしまいました。

<創世記2:17>しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。

<創世記3:6>女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

たったひとつの神様との約束を守らず、罪を犯したため、神様はアダムとエバをエデンの園から追い出してしまいました。

代表であるアダムと神様との関係が切れたことで、すべての人類にも罪が入り、同様に神様と関係が切れてしまうという最悪の事態になったのです。

これは衝撃です。こんな大事なことをなぜ誰も教えてくれないのだろう、と思いませんか?

神様について学ぶ時間をすべての学校の科目に入れて欲しいと思うくらいです。

知らずに生きることがいちばん恐ろしいです。

しかし神様と関係が切れてしまうと、人間の側も神様から遠ざかり、無関係に生きるようになります。

2)いちばん大きな裁きとは何か?

神様と関係が切れてしまったことで、人間が神様と遠ざかり、無関係に生きるようになると、どうなるでしょうか。

神様の代わりに他の何かに夢中になったり、信じたりするようになります。

その対象が、自分自身であったり、他の人物であったり、それこそ神話の神々であったりと、様々です。

そのようにして何かしらを頼ったり、信じたり、崇拝したりするようになります。

神様はこれらすべてを偶像崇拝とみなします。神様から見た時にもっとも大きな罪になります。

<1:25>を見てみますと

彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである。

とあります。これを聞いて私たちはこのように言いたくありませんか?

いやいやそうは言っても、今まで神様について教えてくれる人がいなかったから、と。

しかし神様はこの地球上の万物すべてに、神様の御力と神性を現わしていらっしゃるので、神様が確かにいらっしゃると認めるしかないようにしておかれました。

<1:20>神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

使徒パウロは、すべての人々が必ずどこかのタイミングで神様の存在を認めるしかないような状況、環境に出会うようにと、そのように神様はこの世を創造しておかれた、だから知らなかったでは済まされないと厳しく指摘しています。

しかし、そのようにうすうすわかっていても、気が付かないふりをしてなのか、自分の欲に身をまかせ、好きな通り、やりたいとおりに生きてしまうのが我々人間の常ではないでしょうか。

実は神様のいちばん大きな裁きとは、そういう人間たちをほおっておくことなのです。

生きたいとおりに、快楽に身を委ね、情欲のままに生きる人間たちをほったらかしておく

これがいちばん大きな裁きだということです。

<1:28>そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。

実は、我々人間が安全健康に日々暮らしていられる、というのは奇跡に近いことなのです。

我々の霊も肉も、実は神様のものすごい御働きと助けがあってやっとのことで存在出来ているのです。

生きていることが、あたりまえではないのです。

しかし我々人間はそのことを知らないし、感謝もしません

それでも神様はいつかはわかってくれるだろうと期待して、いつかは神様を呼んでくれるだろうと、長く忍耐して待ちながら、今日も休まず我々人間を助けてくださっているのです。

にもかかわらず、その神様の思いを感じられず、あるいは感じていても無視して自分勝手に生きるのであれば、どうなるでしょうか?

あなたがもし、神様ならどうしますか?

わたしたちは、罪びとである、ということを知る必要があります。

なぜなら人生における様々な苦痛や問題は罪から来る場合が多いからです。

<3:9~12を見てみますと、使徒パウロはこのように述べています。

わたしたちは何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。

義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

ローマ人への手紙のもうひとつの特徴は、このように罪の問題を根本的に解き明かしてくれている貴重な書簡である、ということです。

3)どうすれば罪から抜け出せるのか?

それでは、どうしたら私たちはこの罪から抜け出すことができるのでしょうか

代表として立てられた最初のアダムが、神様の御言葉を守らないことで罪が入り込むようになったので、同じく神様が立てられた第二のアダムであるキリストイエスが、神様の御言葉を守りながら、神様の御心をことごとく最後まで行うという条件を立てなければならない、ということです。

<5:14>しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。

<5:18>このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

ここで「いのちを得させる義」という言葉が出てきました。

これはすなわち、ひとりの人の不従順によって多くの人が罪に定められたようにひとりの従順によって、多くの人が義とされる、ということなのです。

第二のアダムとして来られたキリストイエスがこの条件を立てました。

だから、私たちは彼を信じてこそ救われるとパウロは宣べていたのです。

大事なことは、私たち個々人の罪も、人類全体の罪の償いも、神様が立てた代表でなければ贖えない、ということです。

なぜならば、その代表が罪の代価を支払わなければならないからです。

使徒パウロは、へブル人への手紙という書簡の中で次のように伝えています。

<へブル人への手紙9:22>ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。

人類の罪は、それを手に負える資格を持っている人でなければ解決できないその方こそが、キリスト、メシヤだ、というのです。

キリストはわたしたちと同じ肉体を持ちながら、霊においては全能者神様によって用いられて働きます。

このように、罪の問題は全能者神様の次元でなければ解決できない、だからキリストイエスのことを、使徒パウロは「全能なる御子」であると表現しました。

<1:2~4>この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

「神様の義」とはすなわち「神様の愛」

1)イエスはなぜ偉大なのか

キリストイエスは人間ではあるけれど、その聖なる霊によれば、神の御子あり、神と一体であるとパウロは宣べました。

だから、キリストイエスが神様の御心を完全に全うした条件により、主イエスを信じることで私たちは罪から解放されるのです

このようにキリストの立てた条件、キリストの犠牲は全能な神様の条件、すなわち神様の義となります。

キリストの苦しみ、痛みはそのまま神様が受けた苦痛であり痛みなのです。

だから、死に至るまで従順なさった主イエスの十字架は、神様の私たちに向けられた愛なのです。「神様の義」を最も極的に、象徴的に現したものが、主イエスの十字架なのです。

<3:25~26>神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

主イエスの犠牲の愛は、そのまま神様の愛である、ということなのです。

<5:8>しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

ここで大事なことは、肉体をもったイエスが、最後まで神様の御心に従順したことです。

もしもイエスが「神様、わたしには無理です。できません、他に方法がないですか?」と言っていたならば、御心は成されず、その後の神様の歴史がどうなっていたかわかりません。

なぜイエスが偉大なのか、と言えば、最後の最後まで、ただ神様の御心に従順した、すなわち完全な神の体としてその生を全うしたからなのです。

イエスも私たちと同じ肉体を持っていますし、イエス自身の考えもあったと思いますが、ひとりの人間でありながら、怖かったら、嫌だったら、そこから逃れることもできたのです。

最初の人、アダムのように。

しかしもしそのようにしたら、今の時代はこのように存在していないだろうし、この地球の運命がどうなっていたかもわかりません

いくら、神様の体として、一体だからといっても、自動的に神様のロボットのようにできるわけではない、ということです。

逃れることもできたし、最初のアダムのように罪を犯すこともできたのです。

主イエスの凄さは、偉大さは、そのようにはせず、最後の最後まで全能な神様の完全な体になりきった、神の御子の体として、死に至るまで従順したことです。

2)永遠を左右したイエスの「瞬間の祈り」

マルコによる福音書14:36を見てみますと、

「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。

とあります。

しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」というひと言の祈りが、我々人類の永遠の運命を左右する祈りであったことを知る人が、いったいどれくらいいるのでしょうか。

イエスは最初は「この杯を取り除けてください」と祈りました。それがイエス自身の切なる願いだったからそのように祈ったのです。

しかし、「わたしの思いではなく神様の思いのままになさってください」と祈り、神様の願うとおりにしてください、それに従いますという、ひと言があったから、今、私たちが存在していると言っても過言ではありません。

この、わずか数秒間のイエスの祈りが、傾いた歴史の運命を覆した、最も強力なひと言の祈りになりました。

<5:9>わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

主イエスの十字架によって、アダムの時代から断絶されていた神様との関係が繋がるように道が開かれました。

これこそが、奇跡であり、しるしであり、人類最高の福音だと言えるでしょう。

<ヨハネによる福音書14:6>イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

このひと言の重みを感じてみてください。

このひと言を成すために、どれほどイエスがもがき、犠牲になり、従順したのか

パウロはまさに、このことをわかって信じなさいと言いたかったのです。

そうでないと、ただむやみに主イエスを信じると言っても意味がないと。

ここで大事なのは、ただ神様を信じるとか、メシヤを信じるというのではなく、主イエスがどれほど心と思いと命を尽くして、神様の御心を成されたのか、それを悟って、信じる信仰こそが、本物の信仰者なのだ、ということです。

<10:9~10>すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

3)まことのクリスチャンへの道

<11:24>をみてみますと、

もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。

これは、イエスが復活の栄光を受ける前に、十字架の苦しみを受けられた。だからそのイエスを信じるというのであれば、あなた自身が過去、罪人であった自分自身を十字架にかけてこそ、主イエスのように復活して新たな生を生きるようになる、ということです。

良いオリブとはイエスであり、切り取られた野生のオリブの枝はまさに私たち、だからイエスに接ぎ木されて主イエスと一つになって生きていこう、ということです。

<6:6>わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。

ローマ人の手紙のいちばんの核心は

<12:1~2>兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

主イエスを信じると告白するからと言って、私たちの力だけではこのように生きることは難しいです。

なぜなら、救われてもなお、常に自身の中で善と悪が戦っているし、葛藤があるからです。

だから、救われても油断は禁物です。常に常に、自身の罪と戦わなくてはなりません。

それくらい自分の信仰を完成させることは難しいということです。

<7:22~25>を見てみますとパウロ自身がこのように赤裸々に告白しています。

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

教師として、幼い信仰者であるローマ人にキリストの御言葉を伝えているパウロ自身も壮絶なもがきと葛藤があったということを、包み隠さず告白しています。

パウロがそのようであったなら、わたしたちはなおさらそうですよね。

でも落胆してはいけません。自暴自棄はもってのほか。

わたしたちが救われるのに、能力のある無しは関係ありません。絶対にあきらめないでください。出来ます。

弱い私たちを助けてくださる方がいらっしゃいます

<8:9>を見てみますと、

神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 

神の御霊キリストの霊とはまさに、聖霊のことをいいます。

<8:26>御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

ひとりで思い悩むのではなく、御霊、すなわち私たちの助け主、聖霊を呼んで、共に生きることが必要不可欠だと教えてくれました。

あきらめず、何度でもチャレンジしましょう。

4)まとめ

使徒パウロは2000年前の人物です。

だから現在のように何か資料があったわけではなく、インターネットで簡単に調べることもできません。

しかも彼は、主イエスが生きていた時、イエスから直接御言葉を学ぶこともできませんでした

そういう状況の中でも、主イエスを悟ってからは、自分の無知を後悔し、悔い改めた後はまさに別人のように、第二のイエスのように、主イエスのあかしをしながら、ひとりでも多くの人を救いたいと、寝るまも惜しんで走り続けました。

わたしたちは難解なローマ人への手紙を読むだけでも精一杯で、最初は書かれていることの意味もよくわからなかったのですけれど、2000年前のパウロが、イエスに会ったこともないパウロが、どれほどもがきながら、この記録をしたためたのだろうと考えた時に、涙が止まりませんでした。

現在の私たちはパウロの時代の何十倍も豊富に御言葉が与えられ、いくらでも簡単に便利になんでも調べることができます。

ローマ人への手紙を精読されて、ただ良かった、素晴らしいだけで終わらずに、神様の義、神様の愛を悟って、肌身に感じながら生きていただけたらこんな嬉しいことはありません。

全知全能な神様は全知全能な分だけ、もっと深く大きく心を痛め、苦痛を受けながらもその全知全能な御力で、今も私たちを守り、愛してくださっています。

そのことをパウロは知ったから、悟ったから、命を捨てて最後まで主イエスと共にその生を全うできたのではないでしょうか。

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