問題だらけのコリント教会
1)コリント人への手紙とは
コリント教会は使徒パウロが直接開拓した教会です。
パウロは西暦49~52年にかけて、二回目の伝道旅行中、約一年半に渡ってコリントに滞在しました。そこでユダヤ人と異邦人に福音を伝え、教会を設立しました。
しかし、パウロがコリントを去った後、教会内では様々な問題が発生していました。
コリントは古くからギリシャとペロポネソス半島をつなぐ交通の要所であり、パウロの時代には、ローマ帝国アカイア州の人口50万人の商業都市として栄えていました。
そのような背景もあったことから、コリントの教会内では娼婦の斡旋が公然と行われていたり、義母との同棲、男娼、男色をする信徒たちもいて、非常に性的に乱れていました。
のみならず、異言(霊で祈る祈り)に偏る傾向もあり、偶像崇拝や、分派をもって別れ争うなど、さまざまな問題が山積していました。
パウロが三回目の伝道旅行の途上で、エペソに滞在していることを知ったコリント教会は、ステパナ、ポルトナト、アカイコの三名を代表として送り、パウロに指導を仰ぎました。
西暦53~55年にかけてギリシャのコリント教会に宛てて書き送ったこの手紙は、愛する問題児たちに非常に愛情深く語りかけ、また厳しく叱責をしながら、数々の問題をキリストの福音で解いていく様子が描かれている感動的な書簡です。
教会内での現実的な問題を取り上げた牧会的なこの手紙は、後世にも深い教訓となりました。
2)あなたは誰なのか
使徒パウロが、コリントの信徒たちにまず問いかけたのは、「自分が誰なのか」ということでした。
様々な問題は、その問題自体が問題なのではなく、自分が誰なのかをわかっていないか、あるいは、わかっていたのに忘れてしまったことから来るのだと話をしたのです。
<1:2> コリントにある神の教会(中略)、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。
<1:9> 神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。
まずはこのように、いきなり信徒たちの問題を指摘するのではなく、挨拶をしながら、「あなたたちがどういう存在なのか」を再認識させていきました。
<1:26> 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
<1:28> 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
<1:29> それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
<1:30> あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
「思い出しなさい、もともとはわたしたちは、取るに足らない者であって、罪人であり、地獄に行くしかない運命の人であったのだ、しかもその自覚すら無かったのではないか。
それなのに、今はキリスト・イエスにあって、神に召された者となり、天国を目指して一歩一歩、歩みを進めているのではないか。
もちろん時には挫折もするし、心に波風が立つこともあるだろう、それでもキリストを仰ぎ見ながら、一歩また一歩とあゆんでいくことができているその力は、どこからくると思うのか?」
とパウロは問いかけます。
3)それではわたしパウロは誰なのか
使徒パウロはまた自身の話をしながら、自分が誰なのか、どういう存在なのかを語っています。
<15:9> 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
<15:10> しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
「見なさい。わたしパウロこそが、他の誰よりも罪人の中の罪人であった。なぜなら、主イエスの愛する信徒たちを激しく迫害していたからだ。
だから今、私がキリスト・イエスを語り、宣べ伝えていること自体、有り得ない奇跡なのだ。そしてこの奇跡をもたらしてくださったのは、ただ神様の恵みによるものなのである。」
パウロ自身が重い罪の中にいたけれど、真実な悔い改めによって改心してからは、神様の恵みによって使徒となり、今ではあなたたちにキリストを伝える器にまでになった、とパウロ自身の変化した姿を見せながら、コリントの信徒たちにどう生きるべきなのかを徐々に語っていきます。
わたしに倣うものとなってほしい
1)教会内の諸問題をキリストの福音で解いた使徒パウロ
使徒パウロは「わたしが今生きているのは、ただ神様の恵み、神様の愛によるのである」と語りながら、教会内の諸問題について、キリストの福音を伝えながらひとつひとつ解いていきました。
<6:7> そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか、なぜ、むしろだまされていないのか。
<6:9~10> それとも、正しくない者が神の国をつぐことがないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
<6:15~17> あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。(中略)しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
<6:19> あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
コリントの教会の中で起きている様々な性的な不品行による罪、偶像礼拝の罪などについて、なぜそれが罪になるのかを解き明かしながら、さらにはパウロ自身の結婚観についても語っていきます。
<7:7> わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとりが神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。
<7:9> しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。
このようにそれぞれが、個性のとおり、いただいた賜物のとおりにふさわしい道に行くのが良いだろう、しかしできることならば、わたしパウロのように、命の救いに専念して欲しい。そうだとしても、情欲を節制できなくて罪を犯してしまいそうなら、むしろ結婚しなさいと伝えました。
また、偶像への供え物を食することについては、
<8:4> さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
<8:8~9> 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。
<8:13> だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。
このように、食べたければ食べてもいい、しかし一度立ち止まって考えてみて欲しい、それをすることが神様の有益になるのかどうか、神様の栄光になるのかどうかを考えてみなさい。
自分がそれをやりたいかどうか、やってもいいかと尋ねる前に「神様が喜ばれることなのかどうか」を考えてみよう、とパウロは諭しました。
2)すべての人のように生きた使徒パウロ
使徒パウロは、彼自身が神様の恵みによって生かされ、キリストを信じて福音を宣べ伝えていること自体が奇跡だと告白しながら、神様の恵み、神様の愛に応えるために、ひとりでも多くの人を救いたいと、切なる願いを持っていました。
そのためには、目の前にいるたったひとりの人を生かすため、どんな人にも真摯に向き合い、その人の目線に合わせてキリストの福音を入れながら、命を救うための生活を徹底して行っていました。
彼は、ただ単に「キリストを信じなさい」と伝えるのではなく、相手がユダヤ人であれば、ユダヤ人の思想に合わせて語り、異邦人であれば異邦人のように語り、貧しい人であれば貧しい人のように、弱い人には弱い人になって、ひとりひとりの命の救いを、主イエスと共に行ったのです。
<9:19> わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
<9:22> 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
パウロには、もしキリストの福音を伝えないのであれば、自分には災いになるという危機意識がありました。
ここで言う「福音を伝える」というのは、必ずしも「御言葉を伝える」ことだけではなく、それぞれの個性どおり、使命どおり、役割のとおりに生きていくことを言っています。
わたしたちの日々の生活が「福音」になるように生きていこう、というわけです。
<9:16> わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。
<9:23> 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
<10:31> だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
<10:33> わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
使徒パウロは限りなく降り注がれる神様の恵みを肌身に感じて享受しながら同時に、福音を伝えながら自身が傲慢、高慢にならぬよう細心の注意を払いました。
人々を救っておきながら自分が脱線してしまわないよう、いつも緊張し、おそれおののきながら生きていました。
<9:26> そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
<9:27> すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
キリストの十字架と復活について
使徒パウロはまた、コリント教会内のさまざまな罪の問題を解決することは、自らの力だけでは不可能であると伝えました。
各自が個性通りにいただいた賜物を用いて義を行って生きるのだとしても、なによりも優先させるべきなのは、まず罪の問題を清算することであり、
そのためにはキリストの「十字架」と「復活」の条件が必要で、それなしには罪の清算がなされない、ということを強調しました。
<15:3> わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
<15:4> そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと
イエス様がわたしたちの罪のために死んだことが、キリストの「十字架」、三日目によみがえったことが、キリストの「復活」。
キリストの「十字架」と「復活」が、福音のもっとも大事な核心であると言いました。
<15:17> もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
「死」とは肉体の死だけではなく、「罪」のもとにあることが「死」だと表現しました。
そしてキリストの復活なしには、私たちも死の主管圏から出て来ることができなかったと言いました。
<15:55> 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
<15:56> 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
<15:57> しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
このようにパウロは「死」とは「罪」のことであると言い、「死んでいる」と言うのは、肉体が死ぬことではなく、肉体が生きていながらも「罪の中で生きること」だと言いました。
この罪の問題を解決しなければならない。罪の中で生きる「死んだ人生」から抜け出して、「永遠なる命」を得なければならない。しかし、それが私たちの自力ではできない。
イエス様が十字架につけられ犠牲になって下さったから、私たちは罪から解放され、罪の問題が解決された。
そしてイエス・キリストが復活し、死に打ち勝ったので、私たちもキリストを信じることで永遠なる命にあずかることができた。
この「復活」というのは、主イエスの肉体が生き返ったことではなく、主イエスの「霊」が「生きた霊」としてよみがえることで「復活」し、「死」という名の「罪」に打ち勝って勝利したことである、と明確に伝えました。
つまり、キリストイエスの十字架と復活の条件によって、わたしたちが神様につながることのできる「永遠な命」すなわち、「生きた霊」を得る機会をくださった、ということなのです。
霊と肉の関係とは?
使徒パウロが、「復活」について強調していることのひとつが、霊と肉の関係についてです。
コリント教会の人々は、メシヤを信じて救われたのなら、「天国に行けるからこれでひと安心」というような安易な信仰心を抱いていたようです。だから肉体が乱れた生活をしていても、「自分たちはメシヤを信じているから大丈夫」、と自分勝手に判断していました。
つまり、肉体の行いと、霊の運命をつなげて考えることが出来ず、別々に考えていました。
そこでパウロは、「そうではない。今、あなた方がその肉体を持って行ったとおりに霊が形成されるのだ」ということを比喩で伝えました。
まいた種のとおりに実がなるように、肉体の行いがそのまま霊の姿になるから気を引き締めなさいと諭したのです。
<15:42> 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
<15:44> 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
<15:53> なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
死んだら朽ちる肉体が生きていたときに行ったすべてが、朽ちない霊に反映され、死んだら終わる肉体の行いすべてが、終わりのない霊にすべて受け継がれると、
パウロは見事な比喩を使って、コリント教会の人々に教えながら、「肉体がおこなったとおりに霊が形成される」ということを強調して認識させました。
自分の普段の言動がひとつも消えることなく、そのすべてが霊に吸収されていく、そのまま自分の永遠な命=霊に反映される。だからこそ、肉体がこの世で生きている今が本当に大事だと言いました。
<15:58> だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
主イエスをただ信じるからと言って天国にいく霊になるのではない。罪を悔い改めて清くおこなってこそ、その行いどおりに霊がつくられ、善は善なりに、悪は悪なりの霊界にいくようになることを教えました。
すべてのことは聖霊と共に
1)「福音」は神様の「奥義」で閉じられている
また使徒パウロは、罪の問題も、永遠に生きた霊を得ることも、すべては聖霊の働きによらなければ、単に知識を得て終わる虚しいものになると指摘しました。
つまり、主イエスの「十字架と復活の御働き」も、その根本は全能な神様の御霊、すなわち聖霊によるものである。そのことを知らなければ本来の意味での「福音」にあずかることができない、ということです。
「福音」とは単なるひとつの単語ではなく、「奥義」すなわち「神様の秘密」が隠されている。だから聖霊が共にしてこそ、その秘密のパスワードが解けて、キリストの「福音」に対してはじめて目が開かれるようになる、と言いました。
<2:6> しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵はこの世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
<2:7> むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神がわたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
<2:11> いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
福音を伝えるパウロのような伝道者の側も、聖霊と共に行わなければならないし、その福音を授かる私たちも、まずは罪を悔い改めてけがれをなくし、清い信徒になってこそはじめて聖霊が共にして「福音」のもつ本来の御言葉の威力と御力を享受できる、ということです。
<2:14> 生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
使徒パウロは、コリント教会にある内部での争い、偶像崇拝や性的な堕落などの諸問題の根本は、聖霊が共にしていないからだと、つまり、いまだに人間的な肉の次元で生きているからだと指摘しました。
<3:3> あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
<3:18> だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
2)使徒パウロの思想
パウロは「自分の体は自分の体ではない」、わたしの体はわたしを買い取られた「キリストの体」であると、つまりこの体は神様のものであり、その中に宿られた聖霊の宮であるということを深く悟っていました。
<6:19~20> あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
パウロはこのように伝えながらコリントの信徒たちに、「目を覚ましなさい、自分のからだが誰の体なのかを忘れるな、忘れたら自分の体を娼婦に預けてしまうようになる。世の中に預けてしまうようになる。情欲に溺れてしまうようになる。」と教え諭しました。
すべての問題の根源は、彼らが「自分が誰なのか」を忘れてしまったことにあると説きました。
<3:16~17> あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
「神の宮を破壊する」とは、罪を犯しけがれてしまうこと。すなわち、娼婦とつながったり、偶像に溺れ、悔い改めないこと。そのように生きたら神様がその人を滅ぼしてしまう。なぜなら神の宮は聖なるものであり、あなたがたは神の宮であるからだと言いました。
<3:13> それぞれの仕事は、はっきりわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
ここでいう、「かの日」とは神の裁きの日をいいます。
時が来れば必ずひとりひとりをご覧になり、その行いのとおりに神様は報われる、だから自分を顧みて、一日一日を清らかな神の宮としてつくりながら生きて行こう、と言いました。
<9:23~24> 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
<9:25> しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
このように使徒パウロは、一度死んだら土に還り腐ってしまう「朽ちる肉」のために生きるのではなく、神様の恵みと愛の中で永遠に生きる、「朽ちない霊」のために毎日を生きて行こう、といいました。
今の時代を生きる私たちも、「自分が誰なのか」を知り、神様の愛と恵みの中でキリストの福音を聴いて、罪を悔い改め聖霊を受け、「永遠に朽ちない霊」のために生きる人生になることを願います。