ガラテヤ人への手紙

パウロ書簡

使徒パウロのもっとも感情的な手紙

1)ガラテヤ人への手紙とは

「ガラテヤ人への手紙」は、使徒パウロが書いた書簡の中で最も古いものです。

この手紙は西暦48年頃、パウロがシリアのアンテオケに滞在中に書いたとされています。ガラテヤは、現在のトルコの中央部にあった地域です。

この手紙は、のちに書かれた「ローマ人への手紙」の基となっています。「ローマ人への手紙」は、この「ガラテヤ人への手紙」を原型とし、論文形式でまとめられ、集大成されたものです。

「ローマ人への手紙」が知的で理性的に書かれているのに対し、「ガラテヤ人への手紙」はより感情的で、直接的な表現が多く使われています。

2)パウロに対する批判と情熱的な反論

この手紙が書かれた背景には、ユダヤ教から改宗した者たちによるパウロへの批判がありました。

彼らはパウロを<二つの点>で批判していました。

<一つ目>は、パウロは真の使徒ではないということです。その理由は、イエス・キリストが生きている間に一緒にいなかったからです。

<二つ目>は、パウロの教えが基本的な内容に留まっている。だからパウロの教えだけでは不十分である。したがって、パウロの教えのほかにも、ユダヤ教の祝祭の暦を守るべきでありユダヤ教の慣習である割礼をすべての男子に施すべきだと主張しました。

これにより、異邦出身のキリスト教徒は動揺し、大きな混乱が起きていました。

自分たちのキリスト教徒としてのアイデンティティを失いかけていたのです

モーセの律法も遵守すべきだと主張するユダヤ教出身のキリスト教徒に惑わされてしまったためです。

イエス様が一言も述べていないことを、まるで真実のように宣べ伝えていたため、間違った福音が広まっていました。

これに対して、パウロは彼らの主張を強く否定しました。

この時、もしパウロがユダヤ教からの改宗者たちの主張に屈していたら、キリスト教はユダヤ教の一派、または支派に留まっていたかもしれません。

使徒パウロは居ても立っても居られず、直接的で厳しい口調でガラテヤの人々に警鐘を鳴らし、心の目を覚まさせました。

ガラテヤへの手紙3章1節では

「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。」叱責しています。

この手紙は、他のパウロの書簡と異なり、誉め言葉がいっさいなく、感謝の言葉も含まれていません。「わたしのために祈ってほしい」という懇願の言葉もありません。

これは、パウロが直情的で厳粛な気持ちで書いたことを示しています。

全体として、6章からなるこの短い手紙は、パウロの思いのたけを著した非常に印象深い書簡です

自分が誰なのかを知りなさい

1)真実の福音をめぐる激しい論争

「ガラテヤ人への手紙」で使徒パウロは、信徒たちに対して手紙の冒頭から厳しい口調で語りかけています。

特に第1章の6節と7節には、パウロの強い懸念が表れています。

<1:6> あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。 

<1:7> それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。

この強い言葉の背景には、ユダヤ教からキリスト教に改宗した者たちが、異邦から来たキリスト教徒に対して、イエス・キリストが教えたことでもないのに、自分たちの伝統や戒律を守ることを強要していた事実があります。

使徒行伝にも、そのような事実が記されています。

<使徒行伝15:1> さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。

彼らは新たな信者たちを煽動し、キリストの教えとは別に、自分たちの考えを勝手に付け加えて、教えを曲げようとしていました。

イエスキリストの頭弟子である<使徒ペテロ>は、割礼を受けなくても異邦人聖霊を受けることが可能だと説明しました。

ペテロは、「割礼を受けなくても、主イエスを信じる信仰によって異邦人の心は清められ、救われたのではないか。ゆえに割礼を受けていない異邦人と、割礼を受けたユダヤ人のクリスチャンの間には、どんな隔たりも存在しない」と強調しました。

<使徒行伝15:6~9>

そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。激しい争論があった後、ペテロが立って言った、(中略)
「人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。」

使徒パウロも同じ視点から、次のように述べています。

<ガラテヤ2:16> 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による

<ガラテヤ5:6> キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

<ガラテヤ6:15> 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

パウロは「割礼があってもなくても全く問題ではない」と強調し、「キリストへの愛と信仰を持って自分を新しく作り変えなさい」と信徒たちに教えました。

2)どうすれば惑わされずに済むか

パウロは、信徒たちが容易に惑わされる原因を、「自分が誰であるか、自分の存在の価値を理解していないから」だと指摘しました。

そして、パウロは次のように力強く語りました。

あなたがたが今こうして生きているのは、自分自身によるのではなく、キリストがあなたがたの中で生きているからだ。神の御子を信じる信仰によって、あなたがたの霊も肉も生かされているのだ

<ガラテヤ2:20~21> 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(中略)もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

自分の霊も肉も、キリストによって生かされていることを悟るのであれば、キリストこそが救いの根本であり、キリストの口を通して伝えられる福音こそが救いの根本だ、ということがわかる。

それ以外のことは、割礼も、律法も、救いの根拠にならない、と言いました。

<ガラテヤ6:14> しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない

「考えてみなさい、本来ならば十字架につけられるべきは罪深い私たちではないか。それなのに、主イエスが私たちの代わりに苦しみを受けられた。

主イエスによって生かされたことを誇りに思いなさい。そうすれば、他の様々な非真理に惑わされなくなると教えました。

3)パウロの使命と教えの正当性

このように話しながら、パウロは自身の使命と、自分が伝える御言葉の正当性についても弁明しました。

<ガラテヤ1:1> 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ

<ガラテヤ1:15~16> 母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、

使徒パウロは、自身が人から任命されたわけではなく、主イエスと神によって立てられたことを強調しました。

パウロはダマスコへ向かう途中で霊的にイエス・キリストに出会い、改心してからは自分の使命を深く悟って、主の福音を伝える使徒になりました。

「私は自分が誰なのかをはっきり知っている。今はもはや自分の体ではなく、主イエスの体となってその御心に従って生きているのだ」と証しました。

パウロのように自分が何者なのか、自分の使命が何かをわかるようになると、すべてを神様の視点で、神様の立場で見ることができるので、人の目を意識せずに堂々と振る舞うことができるようになります。

現代でこそパウロがキリスト教の中で中心的な役割を担った「偉大な使徒」として知られていますが、彼が活動していた当時は、イエスの弟子たちの間ではまだ完全には受け入れられていませんでした。

特に、初期教会の重要な指導者であった頭弟子のペテロに対しては、パウロは非常に畏れ多い立場にありました。

しかし、そのペテロに対しても、ペテロが間違いを犯した時、パウロは面と向かって堂々と指摘したというエピソードがあります。

<ガラテヤ2:11> ところが、ケパ(ペテロ)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった

<ガラテヤ2:12> というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

ペテロがアンテオケに来た際、当初は異邦人と共に食事をしていましたが、ユダヤ系クリスチャンが現れると、ペテロは彼らの目を気にして異邦人との食事の席から離れてしまいました。

まるで異邦人と一緒に食事をしていなかったかのように振る舞うペテロを見て、パウロは面と向かって、「その行為は偽善です」とペテロを非難しました。

パウロがこのように堂々と指摘できたのは、神様がペテロの行為をどうご覧になるか、神様の視点、キリストの視点からその出来事を見ることができたからです。

パウロがこのエピソードを話したのは、自分がペテロより優れていると主張するためではありません。

それだけ自分を知るようになれば、神様が自分の体を使っていることがわかり、堂々としていられるという点を強調するために話したのです。

その結果、人々の誤った言葉に惑わされず、人を恐れず、人の無駄な言葉や非真理にも影響されなくなる。

この事実をガラテヤの人々に悟らせることが目的でした。

律法と主イエスの福音との違い

1)律法の役割とその一時性

旧約聖書に記されているモーセの律法も、新約聖書に記されているイエス・キリストの福音も、同じ全能の神様が与えた御言葉です。

しかし、律法は、いわば「罪を犯した人々に与えられた法」だと言えます。

喩えると、監獄や刑務所の中にいる人々に、罪を犯したことを悟らせて、本来の立場に戻るまでの「臨時の法」と考えられます。したがって、これは過程の中の法、経過的な法、準備段階の法です。

完全な御言葉が与えられる前の、準備のために与えられた、「一時的な法」としての役割を果たしていました。

つまり、メシヤが来て新約聖書の時代が始まるまでの旧約時代において有効な法でした。

2)律法を超越した新約の御言葉

それに対して、イエス・キリストが語られた新約聖書の御言葉は、より深い霊的な意味を持ち、完全な法、つまり愛の法であると言えます。

神様は人の心の奥深くを見るため、そのことに重点を置いた、神様の完全な御言葉です。

モーセの律法も主イエスの福音も、どちらも同じ神様から出た御言葉ですが、罪人に与えた律法と、神様の愛する人々に与えた主イエスの御言葉には、比較にならないほどの差があるのです。

それなのに、新しい時代が始まり、完全な御言葉が与えられたのにも関わらず、まだ律法を守ることにこだわるのは、

せっかく刑務所を出て自由の身になったのに、「再び刑務所に戻りたい」、と言うのに似ています。

あるいは、借金を全額肩代わりしてもらったにも関わらず、そのことに気づかずに、

相も変わらず借金を背負っている人のように苦しい生活を選ぶことに似ています。

<律法がどんな役割を持っているのか>、その役割と限界を理解することで、律法に縛られなくなります。

もう律法にこだわることなく、完全なメシヤの福音をよりどころにして生きることができるようになるのです。

しかし、律法であれイエス・キリストの御言葉であれ、どちらも「同じ神様からの御言葉」と単純に捉えてしまうと、焦点がぼやけてしまい、違いを正しく分別できなくなります。

その結果、混乱が生じやすく、誤った方向に導かれやすくなります。

<ガラテヤ3:19> それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。 

つまり、律法は罪を明らかにし、罪を悟るための法であるとパウロは教えています。

また、パウロは次のようにも教えています。

<ガラテヤ3:24-25> このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない

律法は罪を悟り、悔い改め、キリストを迎え入れる準備をするための御言葉であり、養育係のような役割をもつと教えています。

したがって、キリストに出会い、その御言葉を信じて受け入れたなら、もう律法は必要ないと、パウロは説きました。

「神様の子供」になるという祝福

聖書を読むと、神様との関係が時代と共に変わることがわかります。

メシヤ・キリストを信じ、その語られた新約の御言葉を受け入れることで、私たちは神様の子供になることができます。

キリストを信じることによって得られる最大の祝福は、神様との関係がしもべの立場から、子供の立場へと回復することです。

しもべは主人の財産を相続できませんが、子供は親の財産を相続できます。

<ガラテヤ4:7> したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

<ガラテヤ4:8~9> 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

しもべと子供の間には、天と地ほどの違いがあります。

しかし、神様の子供としての立場や資格がどれほど大きいのか、その価値を知らないと、その資格を奪われるようになります。

価値を知らないと、「子供よりしもべの方が忠実で熱心だ。しもべの方がもっと頑張っていて、凄いのではないか」と考え、しもべであることを自慢するようになります。

さらに、「自分には神様の子供になる資格がない」と思い込み、「一生を神様のしもべとして生きる」と宣言する人もいます。

神様の財産を相続するといっても実感するのが難しいかもしれませんが、一度、神様と同じ屋根の下で暮らすことを想像してみてください。

どんなに熱心に働いても、しもべは一生子供になれず、主人の財産を相続することができません。

しかし、子供であれば、たとえぐうたらで怠け者でも親の財産を相続することができます。

霊的に見れば、永遠の天国を受け継ぐということです。一生、永遠に天国で神様と共に暮らすことができる、ということです。

私たちがどれほど取るに足りないみすぼらしい存在であっても、神様にとっては愛する息子や娘です。

この違いを小さく思わないで、霊界の視点まで考えを広げることが重要です。

自身がもっている霊的な身分や立場の価値を悟って、それを決して奪われてはいけません。

分別と確認

1)サタンの深みを知りなさい

違った福音(偽りの言葉)を見分けられず、その偽りの言葉を、たとえひと言でも受け入れてしまうと、その小さな隙間からサタンが巧妙に入り込むことになります。

最初は、真理の御言葉が100あれば、そのうち1つだけが奪われるかもしれません。1つだけならば、まだ残り99があるから、ほとんどの場合、奪われたことに気づかないでしょう。

あるいは、「100のうち1つくらいなら大丈夫だろう」と思うかもしれません。

しかし、サタンは徐々にその領域を侵食し続け、神様の御言葉を偽りの言葉にすり替えていきます。

1つから2つ、2つから3つとすり替えていくうちに、私たちの考えにも入り込みます。

放っておくと、最終的には真理をすべてを奪われることになります

最初の一つを許してしまうと、結局はすべてを奪われてしまうのです。これがサタンの常套手段です。

使徒パウロはこのことを霊的に見抜いていたため、強く憤り、ガラテヤの人々に警告し、彼らの心霊の目を覚まさせようとしました。

私たちの考えの中にも、わずかな隙間があれば、それを足がかりにしてサタンが介入します。

2)サタンの起源

サタンはもともと天国で神様と共にいた天使でした。そのため、私たち以上に神様のことを深く理解しています。

天使でしたが、堕落してサタンとなりました。

創世記の最初の部分によると、サタンはアダムとエバに近づき、ちょっかいを出して、エバに罠を仕掛けました。

エバはその罠にはまり、「善悪を知る木」の実を取って食べてしまいました。

創世記3章1節~6節では、このように記されています。

(中略)へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

神様がひと言も話していないことを、へび(サタン)は耳触りのよい言葉でささやきました。

エバはそのささやきに耳を傾けてしまい、狡猾に誘惑されてしまいました。

その結果、エバは罪を犯し、アダムにも実を与えました。これにより、人類全体に罪が入り込んでしまったのです。

この時、エバとアダムは自分たちの行為が、まさか人類全体に、しかも当世のみならず後世にまで深刻な影響を与えるとは考えもしなかったでしょう。

実際、神様はたったひと言、次のように言われました。

<創世記2:17> しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう

「取って食べると死ぬ」と神様はおっしゃいました。これはとても強烈な御言葉です。

聞いた瞬間は、誰もが恐れおののき、「絶対に食べないようにしよう」と考えるはずです。

しかし、狡猾なへび(サタン)は全く逆のことを言いました。

あなたがたは決して死なない

それどころか、

神のようになる

と言ってそそのかしました

これはまさにおいしい言葉でだます詐欺師の手口です。

サタンは神様の本来の御言葉を歪め、勝手につけ加えたり削ったりしたのです。

3)ガラテヤ人も騙そうとしたサタン

同じように、二千年前、ユダヤ人クリスチャンたちが異邦人クリスチャンたちに語った言葉も、霊的にはサタンが介入して話した言葉でした。

サタンは人を通じて、「神様の子供になる資格」を何としてでもはく奪しようとしたのです。

神様の子供になることの価値をサタンは知っていたからです。

これは創世記の時のサタンの手口とまったく同じです。

「まさか自分はひっかからないだろう」と油断していると、その気の緩みに付け込まれてしまいます。ですから、必ず分別と確認が必要です。

<ガラテヤ2:4> それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので ーー 彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。

<ガラテヤ4:17> 彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから引き離そうとしているのである。

<ガラテヤ3:3~4> あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

<ガラテヤ5:1> 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない

<ガラテヤ5:7~9> あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。

だから、たとえ小さなことでも、「まあ、これくらいなら大丈夫」といって間違った言葉を受け入れてしまうと、大変なことになります。

その小さなことがパン種のように膨らんで、考えが次第に変質していくようになるからです。

4)聖霊と共に「分別と確認」

何でもむやみに受け入れず、間違った教えで惑わそうとするサタンを見分けて、その惑わしを避けなければなりません。

神様は、主の完全な真理に勝手に付け加えたり、減らしてはいけない、と警告しています

そのようなことをする人は、神様の聖なる都、天国から取り除かれてしまいます。

<申命記4:2> わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない

<黙示録22:18~19> この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる

正しいことと、間違っていることを分別する必要があります。そのためには、祈り、聖霊と対話し、相談して行うことが重要です。

このように聖霊と共に生きると、その結果、「御霊の実」を結ぶ人生となります。

<ガラテヤ5:22~23> しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

パウロが伝えた主の御言葉は、当時の人々だけでなく、私たちにとっても必要な教訓です。

日常生活でどのような実を結んでいるかを点検すれば、聖霊の実なのか、それとも肉の欲を満たす実なのか、自ら判断できます。

<ガラテヤ5:16~17> わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。

<ガラテヤ5:19~21> 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。

「実」はわたしたちの行いを意味します。肉の欲によって結ぶ実は、聖霊の導きによって結ぶ実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)とはまったく異なるものです。

パウロは「人はまいたとおりに刈り取る」と述べました。これは、行った行いに応じて善は善として、悪は悪として報いられるということです。

<ガラテヤ6:7~8> まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

だから私たちは正しい福音にもとづいた行いをすることが大切になります。

福音ではどのように行いなさいと書いてあるでしょうか。「神様の愛に基づいて行いなさい」、というのが主の福音の本質です。

<ガラテヤ5:14> 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

これは主イエスが語ったとても大切な御言葉です。

まずは自分自身を深く愛することが大事です。

自分を深く愛するためには、自分が神様の子としてどれほど尊い存在なのか、その価値を悟ることが必要不可欠です。

自分自身をしっかりと愛することができれば、神様と主の愛を深く感じることができます。その結果、私たちは神様の愛から引き離そうとする真理ではない言葉に惑わされることなく、物事を正しく分別できるようになります。

(ガラテヤ人への手紙は、まるで私自身に宛てた手紙のように感じます。その言葉一つ一つが心に響きます。)

自分の価値を認識し、感謝しながら、いつも喜んで生きることを心からお祈りします。

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